In the garden,Love blooms.
 光の中に溶け込んでいく小さな後ろ姿を捉えたとき、これは都合の良い夢か、或いは私欲を詰め込んだ妄想か――どちらにせよ、偽りの世界であることを悟った。
 ぼやけていた視界が徐々に縁取られていく。やがて風景だけではなく、周囲の音や匂いまで鮮明になった。駅の改札口を出てすぐのコンコースは、行き交う人々の嵐が吹き付けている。その群衆の中に、彼女はいた。肩まで切り揃えた髪と膝丈のスカートを仲良く揺らす彼女は、記憶の中より随分と幼い印象を与えた。彼女は北口の方角を目指して、僕になんて目もくれずに颯爽と通り過ぎていく。その瞬間、鼻腔に抜けていく強い花の香りがした。柔らかな春先を彷彿とさせるのに、どこか切ない感傷を刻み付けるような、素朴でいて鮮烈な香りが胸に染み込んでいく。――そうだ。僕は、彼女のこの香りに強く惹かれたのだ。
 足は動かない。代わりに、視線だけが馴染みの背中に縋り付く。追い掛けている内に、彼女の鞄から何かの動物らしきキーホルダーが落下した瞬間を捉えてしまった。幸運なことに、置き去りにされたそいつは雑踏の中でも無傷で生き長らえている。とはいえ、あのまま放置すれば、通行人に蹴飛ばされて無残な姿になるのも時間の問題だろう。彼女は落とし物の存在に気付かず、足早に前進している。聳え立つビルの隙間から差し込む朝日に阻まれて、その背中は刻々と光に埋もれて視界から消えていく。
 ふっと目映い過去が去来する。そうだ、これが岐路だった。僕の、僕達の。
 何を思ったのか、偶々そこを通り掛かったあの日の僕はわざわざキーホルダーを拾い上げて、彼女の背中を追い掛けていたのだ。普段なら故意に足蹴にして脇に避けておくような、道徳心の一切を持ち合わせていない非情な人間なのに。正気じゃなかった。ほんの出来心だったのか、それほどまでに彼女の香りに心を絡め取られて吸い寄せられたのか。今となっては、どちらだったのか思い出すことさえままならない。
 僕達の出逢いは偶然の産物で、必然ではない。このまま僕が大地を蹴り上げなければ、彼女の元に走り寄らなければ、交わることなく結び付くこともない、臆病で脆弱な運命。そんなものを安易に迎え入れてしまったばかりに、彼女は、不遜な男に苦しめられて、絶え間なく傷付いて、過酷な人生を余儀なくされている。僕が、そうさせた。
 このまま接点を持たない方が、彼女のためだ。漠然とその閃きは降りてきた。
 開いていく距離を埋めることなく、見知らぬ他人として、ただ同じ惑星に生まれ落ちただけの人間として生きていくことを選び取り、この関係を葬り去れば良かった。そうすれば、彼女が僕を想って胸を痛めることも、泣き崩れることもない。静穏に明け暮れる日常へと舞い戻ることができる。僕がこの衝動的な愛執を押し殺しさえすれば、例え虚構の世界でも、彼女はありふれた幸せを享受できるのだ。
 ――出逢わなければ、良かった。
 今度は明瞭に、僕の内なる理性が厳粛にそう告げていた。


 との邂逅は揺るぎなく、僕の人生を大きく揺るがした要因のひとつだった。
「これ、落とした」
 あの日の僕は、上辺だけはそれなりにまともなを面の皮を被っていた覚えがある。
 そうはいっても、背後から強引に腕を引き止め、道中で回収してきた落とし物を押し付けるような行動は、常識の範疇を越えている。当時のの顰蹙を買わなかったのは奇跡に等しいだろう。というよりは、彼女の寛容なような鈍麻なような紙一重の性格のおかげか。
 振り向いた彼女に直面して、心臓が淡く痺れる心地がした。恐ろしく無垢な瞳が待ち受けていた。何の先入観も警戒心も宿さないそれは、淀みなく澄んだ水底のようだ。たじろいだ僕の一挙一動を漏れなく反射する。意表を突かれて間抜けな顔を晒す自分は、存外、彼女に撃ち抜かれていた。
 一目惚れ、という現象について否定的だった。素性も本性も知れない人間に惹かれる心理も、自分と異なる種別の人間を恋慕う感情も、甚だ理解できない。きっとこの先も無縁なものだと決め付けていた。でも、この瞬間には既に恋に落ちていたのだと思う。過程とか理屈とかそんなものはお構いなしに、本能的に、直情的に、に心を奪われた。
 本当は無為な会話を遮るように手のひらに押し付けて退散するつもりだったが、それは躊躇われた。不純な下心が働いたわけではない。の両手は塞がれていて、物理的に不可能だった。大きな花束が彼女の腕を独占していたのだ。純黒の制服と相対する、高潔の白色が網膜を焼き尽くすほどに眩しい。そよ風に靡く白百合の大群が、寡黙に僕を威嚇していた。
 行き先を失くして宙を舞った片手を、その勢いのままにの目線に掲げた。置いてけぼりを食らった猫のキーホルダーが、不貞腐れてそっぽを向く。いつの間にか僕の指先に住処を移り替えていたそいつに、彼女はぱちぱちと瞬いて、視線の先を僕に滑らせた。
「え、うそ、ありがとうございます」
「……別に」
「これ、すごく大事なものだったんです。えっと、……」
 状況を把握して深々と頭を下げたは、そこから困ったように眉を寄せた。本来なら手を差し出して受け取るところだが、生憎の荷物に塞がれてその余裕がないのだろう。深刻そうに狼狽える彼女は、無性に好奇心をくすぐられて、離れがたい欲望を唆した。
 とはいえ、いくら僕でも偶々通りすがっただけの他人に不誠実な暴虐性は発揮できなかった。やむを得ず善人を装って、キーホルダーを彼女の鞄に付け直してやる。無事に帰還した猫を見届けたは、再び謝意を述べると柔くはにかんだ。ぶわりと心臓が粟立つ。胸の奥底から込み上げる期待のような興奮のような何かに、内側から焦がされていくようだった。甘酸っぱい微熱を薙ぎ払いたくて、居丈高に唇を尖らせて顔を背ける。この頃の僕といえば、感謝を素直に受け止められない反骨精神の塊だったから、これでも加減した方だった。
 見事に膨れ上がっていく僕の熱量に反して、世間の風潮は冷酷で忌避的だった。密度も速度も増していく駅前の人波は、その渦中で立ち止まっている僕達を露悪的な視線で排除しようとする。どうせこいつらの目には、自分達だけの世界に没入しているバカップルにでも映っているのだろう。過激な連中なんかは、無下限で鉄壁の守備を固めている僕にではなく、いかにも温和そうなの肩にわざとぶつかってきた。その場面に虫唾が走っているくせに、彼女を解放したくない独善的な自分もいて、矛盾した心に益々嫌気が差していく。僕の眼光に宿る、血気に逸る情感を察したのか、は張り詰めた面持ちで睫毛を震わせた。
 そんな行き詰まった僕等の状況を打破したのは、から繰り出された突飛な行動だった。彼女は美しく咲き乱れる花束を抱えながら、慎重な手付きでその中の一輪を引き抜いたのだ。選出された白百合は、先程剥き出しにしていた敵意をしまい込んで、僕の鼻先に優しく触れる。濃厚な甘さと洗練された優雅さが入り混じる花の香りが押し寄せて、軽い目眩さえ催した。
「あの、これ、良かったら貰ってください」
 差し出した張本人は至って真剣だった。辿々しい口調の裏側には、どこから湧いて出てきたのか不思議なくらいに無邪気な自信が漲っている。贈り付ける白百合の価値を信じて疑わない彼女の懸命なまなこに、脳内はかつてないほど混迷していた。――何だこいつ。この花貰ってどうしろって? 思考だけが忙しなく駆け回っている。そうして僕の平静をねじ伏せておきながら、は淡々とこの対話の終着に向かっていた。
「すみません。本当はちゃんと御礼がしたいんですけど、今日は時間がなくて……」
「はっ? ちょ、おい」
「ほんとにほんとにありがとうございました!」
 もう幾度目にもなる謝意を残して、そして一方的な贈り物を僕の胸元に押し付けて、は慌ただしく人混みの奥深くへと乗り込んでしまった。間もなくして彼女の気配も呪力も視界から消え果てる。呆然と立ち竦むしかできない僕を、きゃぴきゃぴした見知らぬ女達が代わる代わる取り囲んでいたけれど、何の反応も示さない僕につむじを曲げてどれも撤収していった。何の弁明にもならないが、無視するつもりは全くなくて、本当に心ここにあらずの状態だった。
「……男が花一輪貰ってどうすんだよ」
 ようやく魂が現実に流れ着いたところで、思わず独り言が滑り落ちる。怒涛の勢いで出逢いと別れを経験したため、あれが夢か真かも曖昧だった。そんな腑抜けた調子の僕に寄り添っているのか、手放された側の白百合が甲斐甲斐しく花弁を揺らして、儚い現実味を主張してくれていた。
 いちどめの偶然は、太陽に命を吹き込まれて顕現する朝顔よりもよほど薄命だった。
 会話が成立していたのかすら怪しいのに、あの日のたった数分間は、脳内のスクリーンで繰り返し上映されていた。心の映写機を回すたび、胸が柔く締め付けられる反面、記憶のフィルムは擦り減って色褪せていく。の見目も声も香りも、あの日感じた鮮烈な高鳴りさえも、永遠に十全のかたちを保つことはできず滅びていく。忘却は引き止められない。いずれはこの記憶も断片的になり、曖昧な輪郭だけが生き永らえる。その事実を汲み取ってしまった瞬間、痛覚が断末魔の叫びを上げそうなほど奥歯を噛み締めた。ひどく後悔した。気取った自尊心なんてかなぐり捨てて、雑踏に紛れ込む手前の彼女を無限で引き寄せて、せめて連絡先だけでも強奪してしまえば良かったと。そうすれば、思い悩む暇もなく偶然の続きを綴ることができたのに。その自惚れも虚しく、過ぎる月日に空白だけが積もっていく。
 しかし、僕にも一縷の望みがある。あの日送り届けた猫のキーホルダーだ。どさくさに紛れて、あれには僕の残穢を染み込ませておいた。この無駄に秀でた瞳ならば、自身の呪力から分泌された切片を気取ることなど造作もないだろう。この密かな独断専行を奥ゆかしいととるか、未練がましいととるか――満場一致の答えが目に見えている。
 ただ、心の片隅ではその目論見も無謀だと薄々勘付いていた。どれだけ六眼が優秀でも、人間ばかりがすし詰めの広大な都内を一望することは不可能だ。ある程度の距離まで接近する必要がある。ふたりが同じ時同じ場所に出没する確率なんてほんの一握りだし、そもそも彼女が都内に在住している保証なんてどこにもない。偶然を重ねるには策略の精度が不足しすぎていた。
 無慈悲な現実に囚われながらも、僕の慕情が死に損なったのは、あの日手渡された白百合のせいだった。清く気高く咲き誇り、時に愛らしい可憐さを振り撒くそれを、彼女の面影を生かすつもりで懇切丁寧に世話してやった。水替えだの水揚げだの面倒な手順を踏んでいれば、それなりに愛着が湧いたりもした。傑が僕の部屋に足を運んだ際には「まさか花がかわいい年頃とはね」と面白がられたりしたものだ。そうして延命を試みたが、十日を越したあたりから見る見ると首が垂れ下がり、花弁も葉もくたくたに萎れてしまった。繋ぎ留めていた記憶の鎖が錆び付いていく。あえかなる生花の顛末は、僕の恋慕が転がり落ちていく未来のような気がしていた。そのときは。
 にどめの偶然が訪れたのは、あれから半年近く月日が流れた頃だ。体感としては、小学校に入学してから卒業するまでの期間くらい長かった。気まぐれに神様が落とした偶然は、腐食したフィルムの乱れた映像を反芻し続けていた僕を、いとも容易く翻弄する。
 硝子と歌姫の買い物に付き合うはめになった僕と傑は、久々に都心の繁華街へと繰り出していた。希少価値の高い同期の護衛も兼ねてはいたが、女子に優しく振る舞いたがりな傑がその役目を引き受けていたので、僕は手持ち無沙汰だった。空いていたベンチに腰掛けて、甘ったるいミックスジュースを流し込む。過剰な糖分は脳髄を快く、喉元を不快にさせた。都会にしかない衣服を大量に漁っている歌姫と、その光景を微笑みながら傍観する傑と硝子を思い描き、自然と口角が上がる。おひとり様の選択をしたことを若干悔やみそうになった、そのときだった。
 刹那の違和感を、僕の聡い双眼は見逃さなかった。はっと息を呑む。首を擡げると、行き交う人に紛れている僕と瓜二つの気配があった。背骨に甘い痺れが先駆ける。ほとんど残光の抜け殻と化していた記憶の欠片が、燦然たる光彩を放ち始める。ほとんど衝動的に立ち上がり、強く地面を蹴った。その気配を追い掛けるには過密すぎる雑踏を、人目も気にせずかき分けていく。徐々に迫ってくる僕の残穢に共鳴して、心臓が一際大きく躍動する。人波に揉まれて泳いで逆らって、気付いたらまた押し戻されて。そんな膠着を突き破ったのは、隙間を縫って漂ってきた花の香りだった。蘇る。この肉体を炙り尽くした、この魂を惑溺させた、あの日の香りが襲来する。咄嗟にその隙間に腕を潜り込ませ、引き寄せる――ことは叶わなかった。届かない。けれど、僕の期待を裏切っておきながら、その香りは咽返るほどにより一層華やいだ。
「やっと、会えた……」
 掴み損ねた筈の指先は、どういうわけだか僕の手首を掴んでいる。
 その呟きは僕のものではない。人のあわいをすり抜けて目の前に躍り出たが、僕の手を捕まえてこちらを見上げていた。潤みを帯びた呟きは、紛れもなく彼女のものだった。
 思わず生唾を飲み込んだ。ふたりの切羽詰まった吐息が重なる。熱っぽい視線がぶつかり合う。彼女の澄んだ瞳は、波打ち際のように淡く揺らめいた。
「あの、あのときの……猫の恩人さんですよね?」
 ごと無限で包み込み、日曜日の人混みから脱出して路肩に寄ったところで、ようやく会話に着手した。弾む息を抑え込むように胸元に手を当てる彼女は、その興奮を抑えきれない様子で首を傾げる。連絡先は疎かお互いの名前さえ知らなかったとはいえ、耳を疑うへんちくりんな異名で呼ばれて思わず吹き出してしまう。吹き溢れる笑みを閉じ込めながら浅く頷くと、は花が綻ぶように笑った。
「何だか背が高くて白い人がいるなって思って、それで慌てて引き止めて……」
「……」
「嬉しいです。また、こうしてあなたと巡り会えたらって思っていたから」
 その吐露を受け止めたとき、頬から鼻先から耳の裏側まで、至る所に微熱の電流が迸って顔が熱くなった。一言一句、僕がぶちまけたくて堪らなかった思いの丈だった。も同じだったのだろうか。僕への想いを募らせて、偶然の続きを夢想して、この必死の再会へと辿り着いたのだろうか。自分だけが未練を拗らせて執着していたわけではなかった安堵と、忽ち増幅していく彼女への恋しさが、一緒くたになって胸の内側に浸食していく。
「あの、良かったら連絡先教えてくれませんか」
「はっ……」
「あと、それから名前も!」
 挙句の果てには、この偶然に至るまで悔やんでも悔やみきれなかった提案を、から臆することなく発露してしまった。自分の不甲斐なさを噛み砕きながら、彼女の素直すぎる言行には感服する他ない。羨望じみた嘆息が零れ落ちて、空気を湿らせた。
 互いの連絡先を交換し、彼女がであることを知り、僕が五条悟であることを伝えた。律儀なはちゃんとした御礼がしたいとせがんだが、買い物を終えた傑達にいつ嗅ぎ付けられるか気が気でない僕は、断固として拒否の姿勢を示した。代わりに必ず連絡を入れる旨を約束して、そそくさと彼女の元を立ち去る。後ろ髪を引かれる心地で何度か振り返ると、そのたびにが日溜まりのような微笑みで手を振るものだから、本当に耐え難い。ちなみに、とうの昔に買い物を終えて影から盗み見ていた傑達には「ナンパ?」だの「その顔面でも失敗するのか」だの散々からかわれた。
 偶然に偶然が重なり合ったとき、それは奇跡と呼んでも差し支えないのだろうか。ならば、ここから先は? この奇跡を経た僕達は、次はどの段階に向かうのだろうか。当時の僕には分からないことだらけだった。その未知を埋めるために、意を決してにメールを飛ばした。堰を切ったようにほとんど毎日電波の応酬が始まり、未知なるの内側に少しずつ潜入していく。
 実は同い年であったこと。都内の公立高校に通っていること。彼氏はいないこと。あらゆる余白を既知に塗り替えていき、僕の中の彼女が形成されていく。それでも、文面越しに伝わる情報には限りがある。何よりも、あの笑顔をこの目で見たかった。もっと奥深くまでを識りたいと、近くで彼女を感じたいと、ずっとその欲望がさざ波立っていた。
 さんどめの逢瀬は、初めて自分達の意思で約束を取り決めた。ただ、またしても主導はだった。そろそろ誘いを持ち掛けようと決意を燃やしていた頃、何の前触れもなく彼女からデートを打診されたのだ。そりゃあ最初は舞い上がって宙を踏みしだくような心地だったが、段々と自分が情けない男の典型のような気がして、気が滅入ったりもした。しかし、齢十六にも満たない青臭い男の感傷なんて、好きな女の子とのデートを前にすれば一瞬で吹き飛んでしまう。前日から浮き足立って眠れなかった僕は、遠足前夜の小学生のようだった。
 来る日、来る時、集合場所にが訪れて、それだけで息が詰まるほどの充足感を得た。僕を視界に捉えて走り寄ってきた彼女も、今にも涙ぐみそうな痛切な表情で頬を緩ませた。薄手のニットワンピを着たは、冬に差し掛かる手前の季節にしては寒そうな装いだった。何度かその華奢な身体を抱き締めて温もりを与えたい衝動に駆られたが、既の所で抑圧に成功していた。今回は間に合ったが、徐々に擦り減っていく理性は、いつの日か弾け飛んで彼女を腕の中に囲い込んでしまう予感もしていた。
 その日はありきたりな恋愛映画を見て、ぐしゃぐしゃに泣いたの頭を撫ぜてやるのが精一杯だった。ハンカチで目頭を押さえながら掠れた嗚咽を洩らす彼女に、こういう普通の恋愛に憧れを抱いているのか、と仄かに寂しく感じた。普通が悪いわけではない。特殊な世界で息をする僕に、そういった恋愛模様はきっと描けない。ラストで主人公が享受した安穏たる幸せを、その類を、僕はに与えることはできないだろうから。胸を抉るような事実に直面しながらも、彼女の傍にいたい気持ちは揺るぎなかった。それはもう、卑怯なほどに、傲慢なほどに。
 二回目のデートは浅草でとにかくたくさん食べ歩いた。食べ物を口にするたび新鮮に瞳を輝かせる彼女が、可愛くて堪らなかった。
 三回目のデートは水族館に行った。海底に沈み込んだような幻想的な世界で、青白い光を貰い受ける彼女の横顔にずっと見惚れていた。
 その帰り道、夕映えの秋空に急かされながら僕は腹を固めていた。この曖昧な関係を断ち切って、ちゃんと名前と意味の付随する関係を結び直す、その腹積もりだ。心を寄せ合うこと、身体に触れ合うこと、それを許される権利が欲しい。を僕だけのものにしたい。そんな獰猛な渇望が腹の底で渦を巻いていた割に、告白という正当な手続きを踏むつもりではあったから、歪な恋心のくせに誠意だけは備わっていた。
 水族館の最寄り駅に到着して、階段付近の混み合ったホームから離れた場所に向かう。誰もいないベンチに腰を掛けて、ふたり揃って吐息を洩らした。目まぐるしい一日の終点で、ようやく穏やかな一時が舞い込んでくる。痩せ我慢を張っていた僕の心音は、途端に苦しげな拍動を刻み始めた。手汗が滲む。鳩尾が痛い。柄にもなく緊張していた僕は、自分を奮い立たせんとばかりに握り拳を強く固めた。そのときだった。
「五条くん」
 ぶわりと、空気が武者震いをするのを肌で感じた。世界も僕と同じように、口を噤んで張り詰めている。静かに沈みゆく夕日は苛烈に燃え盛っているのに、どこか温かく包み込まれている感覚もあった。
 の優しい声が鼓膜にこびり付く。茹だる視線が頬を撫でる。確信めいた予感がする。
「私ね、あなたに言いたいことがある。とても大切なことが……、」
 物々しい前置きは、もう泣き出す寸前の声だった。震えていた。の秘めた熱情が溢れ出す瞬間を目の当たりにして、心臓が握り潰されたみたいに苦しい。呼吸さえし損ねる。僕まで涙が込み上げてきそうだった。その導入の続きは、待てども沈黙を振り切っては出てこない。言葉に詰まってもどかしそうな彼女は、緩やかに目を伏せて下唇を噛み締めた。
 ならば、今度は、今度こそは。先を越されてばかりの僕が、に代わってその先を綴るべきだ。元より打ち明ける覚悟だったのだから、そうあって然るべきだ。迷いは微塵もない。彼女の両肩を掴み、その手付きで上を向くよう促す。頭を持ち上げたの瞳は、夕立ちの前触れのように湿り気を帯びて、今にも決壊しそうだった。
「待って、
「……う、ん?」
「今日は俺が言う。俺に言わせて」
 いざ切り出してみると、今まで言い倦ねてきた僕が相当みっともない男であると自白しているようで、死に恥晒しもいいところだ。善良すぎるの傍にいると、いかに自分が矮小な人間なのかを思い知らされる。それでも、だからこそ、僕は彼女の傍にいたいと強く願ったのだ。生まれながらに非凡な才智を持ち合わせていても、結局はただ一端の人間風情であることを実感できる。孤独をすくい上げる理解でも共感とは程遠いけれど、ごくわずかに内在する人間臭い一面を見失わずにいられる気がした。
のこと好きだ。一生大切にするし絶対守り抜く。だから、俺と……俺と付き合って」
 行く手を阻まれて胸の奥深くに漂着していたその感情は、ひとたび氾濫すると取り返しがつかないほどの激流に飲まれてしまう。無限に膨れ上がっていく熱情も、それを綴る言葉も尽きることはなかった。恋しいとはこういうことなのだと噛み締めた。歯止めがかからず注ぎ足されていく僕の告白を食い止めたのは、勿論、目の前の彼女だった。肩口に覆い被せていた手の上から柔い体温が溶け込んでいく。の小さな手のひらが、僕の手の甲に重なっていた。
「私も五条くんのことが好き。大切にしたい。守らせてほしい」
 僕に追随するような告白は、同じ温度で同じ形で、同じ意味を成していた。瑞々しく潤んだ虹彩が目映く光り、僕の心臓を穿つ。初めての瞳に撃ち抜かれたときの衝撃が蘇る。あの日から僕等は運命的に惹かれ合った。だから、時間を要さずとも言葉も介さずとも、行き着く先はお互い察していたように思う。それでも、信じて疑わなかった運命が迎えに来てくれたこの日を、生涯忘れられないと思った。
 夕暮れに染まる世界のすみっこで、僕等は重ねた手を強く握り直した。花の香りがする。いつだって、この香りは僕を絡め取って離さない。
 いつの間にか、千切れていく雲間から予定にない俄か雨が降り注がれていた。僕達はいつまで神様の気まぐれに付き合わされるのだろう。運に恵まれないのか、それとも秋雨を浴びずにすんだから寧ろ恵まれた方なのか。そんな無駄な逡巡に費やす余白はなかった。僕の脳内はだけで埋め尽くされていたから。ただ、もしかしたらあの夕立ちは、涙ぐみながらも頑なに一粒として零さなかった僕達に代わって神様が泣いてくれていた象徴なのかもしれない。今になって、そう思う。
 好意を伝え合って望んだ関係を手に入れたあの日、その嬉しさとは裏腹に切なさの方が勝っていた。眼球の表面にまで込み上げてきていた水分は、嬉し涙ともまた違う。この恋が紡いでいく破滅の一途を予期していたのだとしたら、それはあまりに悲しすぎる予感だった。
 恋しいという気持ちに終着はないけれど、そこに愛しいという気持ちが入り乱れるようになった。恋人になって、恋人になることの意味を知った。夢見ていた関係は、甘くて優しくて幸せなだけのそれとは違った。
 と恋人として過ごす時間は、外の世界に触れることが多かった。お互いがまだ学生身分で、僕は寮生活、彼女は実家で暮らしているということも大きかった。取り分け、よく四季折々に咲く花を見に行った。その記憶がその時期と結び付いて、季節を巡るたびに胸の内にはほろ苦い感傷が漂った。
 春には桜並木を練り歩いた。ふいに触れた指先を捕まえて絡ませたとき、彼女の頬が満開の桜よりもピンクに染まった。
 夏には向日葵を見に行った。青空を覆い隠すほど伸び切った背丈の向日葵達をかき分けて、身を潜ませる彼女を背後から思いきり抱き寄せた。
 秋には銀杏を見に行った。太陽を透かしたような黄金色の影に潜んで、わずかに触れるだけの静かな口付けを交わした。
 冬には白百合のようにましろの雪を投げ合って、冷え切ったふたつの身体を寄せ合って、ひとつに溶け合った。
 そして、ひとつになったふたりで、また春を迎える。
 幸せだった。ありふれた恋愛に倣って、特別なひとを大事にした。もう戻れないあの幸せこそが、僕をこの過去から抜け出せなくさせていた。
 呪術師という生業のこと、呪いという不可視の残酷のこと、何ひとつとしてに語ることはできなかった。彼女の平穏な生活を呪いに蝕まれることなく守り続けたかった、というのが主たる理由であり、同時にもうひとつの理由の建前でもあった。心の片隅では、こちらの言い分を信じて貰えたとしても分かり合える筈がない、という断定的かつ独善的な理由も介在していた。分かり合う必要はないと線引きしているつもりでも、ここまで僕をこよなく愛して寄り添ってくれた彼女であっても分かり合えないと突き付けられるのが恐ろしかった。その歪みはきっと運命を分かつ亀裂になるだろうからこそ、余計に伝える理由がなかった。
 素性を明かさないことも秘密を抱えることも、そのこと自体は後ろめたくも何ともなかった。ただ、些細なことでもに嘘を吐き連ねていくごとに仄かな罪悪感が芽生えた。裏切りを積み重ねていく内通者ような感覚だった。それが必要ならば、戸惑われても良心と刺し違えてでも虚言を送り出した。僕が隠し事のために嘘を吐いたと気取ってしまえば、いつもは寂しそうに目を伏せるから、そのたびに胸が押し潰される。愚の骨頂だ。呪術と無縁の人生を歩む彼女を引き止めてしまった時点で、遅かれ早かれこうなる未来は想像線上にあった。どんなにの心を傷付けて引き裂いてめちゃくちゃにしてしまっても、彼女を離しがたいという浅ましい欲望を捨て去れなかった。のためではなく、彼女と一緒にいたいという僕のエゴのために。正しくも美しくもない嘘で、命果てるまで半永劫的に続いていくであろう、後ろ暗く罪深い僕の人生を誤魔化し続けた。
 まことの意味で彼女の誠意を裏切ることになったのは、あの年のあの晩夏だった。この世界でただひとりの親友が離反を図り袂を分かったとき、とてもそうは信じられなかった。悍ましいく惨たらしい悪夢のようだった。今もまだ泥濘の底を彷徨い続けていて、突然夢から醒める日を夢に見ている。そんなみじめな夢想を諦めきれずに心底にしまい込んで、光だけが埋め尽くす目映く儚い三年間に蹲っている。
 あの傑でさえそうだったのだから、僕と同じ速度で隣を歩くことも同じ尺度で世界を見ることも、誰であっても不可能だ。あの痛惜に堪えない別離を経て、その結論に行き着くのは妥当ですらあった。いつかが僕を見限ってしまう前に、僕の手からすり抜けてしまう前に、こちらから手放してしまう方が辛くない。寂しくないし、苦しくない。そんな尤もらしく虚飾した、我儘なだけの不誠実な理由を掲げて、僕の身を案じるからの連絡を全て遮断した。生きる世界は同じでも、人と人との繋がりはこんなにも呆気なく途絶できる。傑然り、然り。
 今頃、僕を偲んで膝を抱え込んではいないだろうか。ぱっちりした瞳が覆い隠されるくらい泣き腫らしていないだろうか。そういう自分に都合の良い妄想ばかり量産している僕自身が何よりも情けなくて腹立たしい。でも、この別離によって彼女が呪い呪われた世界に踏み込む可能性は潰えたならば、祝福すべきだろう。どれだけ守り抜くと誓っていても、僕の傍にいればその可能性はゼロにだけはならないのだから。――それは間違いなく建前だった。僕の身勝手を正当化するための、彼女を傷付けたことを正当化するための、建前だった。
 僕の隣から愛する人達の気配が消えて、半年が経とうとしていた。単独任務に出向いた先の見知らぬ土地で、また僕達は神様の気まぐれに翻弄される。……いや、違う。きっと彼女は、偶然の機会が訪れていなくても、神様なんかに頼らなくても、自力で僕を追い掛けてきたのだろう。勝手に愛を押し付けて勝手に姿を消した傲慢な恋人なのに、は矛盾に満ちて閉ざされた僕の心を平気で抉じ開けにくる。
「……悟くん!」
 猫の恩人が五条くんになって、五条くんが悟くんになった。僕がそうさせた。彼女がはにかみながら僕の名を呼ぶ声は、鼓膜の奥で揺れ続けている。昔も今も、変わり続ける名称が、変わることのない音色で。
 その声が幻聴でないと認識するのに時間は要さなかった。例え人混みに紛れていても、僕の視界にひとたび入ってしまえば、それは簡単に知覚できる。彼女が肌身離さず身に付けている僕の残穢は、もう我が物顔で皮膚に骨に細胞にと染み込んでいた。どこにいても捕まえたいという独占欲と、呪霊を寄せ付けないための庇護欲の結果がこれだ。今日ばかりは裏目に出た。彼女の気配を察知した瞬間、記憶の鎖が足に絡み付いて咄嗟に動けなかった。
 今すぐにでも飛び出して彼女の世界から存在ごと立ち消えたい衝動と、再び彼女の世界に舞い戻って幸せの水底に沈み込みたい衝動が、ぶつかり合って反発し合う。けれど、とっくに勝敗は決していた。爪先がたじろいだ時点で前者の敗北は必然だった。無下限のオートマ化なんてとうの昔に会得していたのに、それをわざわざ解除したのは、僕の内側に踏み込んで欲しかったからに違いないから。
 小さな手のひらが僕の手首を捕まえる。ひやりと背筋が慄いた。凍える寒空に痛め付けられた皮膚から冷たい温度が浸透する。僕を責め苛むにも引き止めるにも効力としては充分だ。躊躇ではなく期待が迫り上がってきて、その手を振り払うことなく立ち止まる。視線が交錯する。少し髪の伸びたの優しい眼差しは、慈しんでいるようでも見咎めているようでもあった。
「…………元気にしてる?」
 突然消息を絶った恋人に掛ける言葉がこれなのだから、やはりは優しすぎる。そんなに彼女の中で息づく僕は真摯で誠実な男なのだろうか。呪霊が蛆のように湧いて出た今夏なんてろくに会う時間もつくれず、かと言って豪華な埋め合わせが用意できたわけでもない。何より真髄を嘘で塗り固めて、取り繕った姿で接してきた。術師としての自分は優秀でも、恋人としての自分は劣悪だ。だから、に労ってもらう権利も慰められる権利もない、筈なのに。
 僕は頷くこともかぶりを振ることもできなかった。健やかな心身とは程遠く、かと言って不健康だからとこれ以上の同情を誘うような情けない真似はできない。しかし、彼女は僕の冴えない沈黙を否定と捉えたのだろう。抑えきれないとばかりに震える唇から、健気な愛憐が滑り落ちていく。
「何かあったんじゃないかって、すごく、すごく……」
「……
「嫌われただけなら、まだ良くて。でも、悟くんずっと何か抱え込んでそうだったから、余計に、……」
っ!」
 耳を塞ぎたくなるほどに悲痛な呟きが落ちてきて、僕は思わず叫んでいた。遮られたは俯いて唇を噛み締める。人々の喧騒の中に沈み込む静謐な沈黙が、僕の首根を締め付けるようだ。
 本当は、僕なくしても平気な顔で息をして人生を辿っていくを見るのが怖かった。僕以外の大切なひとと人生を共にするを、何よりも恐れていた。僕の不在に心をかき乱されて、声が枯れ果てるまで咽び泣くの姿こそが、僕の存在意義を証明してくれるように思えたから。ひどい冒涜だ。最後まで僕は僕のために彼女を傷付けている。けれど、どう足掻いたって傷付いた痛ましいを見て胸を撫で下ろす非道にはなれなかった。どんなに性根の歪んだ人間でも、その自覚があっても、愛する人の深い悲哀に覆い尽くされた表情に安息を得られる筈がない。には花の綻ぶような笑顔がよく似合う。今まで目と鼻の先でその微笑を差し向けられてきた僕が、知らないわけがない。
 ならば、もう。これを最後にするべきだ。お終いにするべきだ。ただ手放すだけ手放して曖昧に濁すのではなく、この別離に手向ける言葉を添えて、終結を迎えよう。本当にを愛しているから、大好きだから。だからこそ。
「……俺はもう、とは一緒にいられない」
 無言の別離より間接的な拒絶より、断絶を図る告解こそ一番にを傷付けるだろうと分かっていた。分かっていたからこそ、今から刻み付けるこの傷を最後にしようという誓いを込めて、僕はに別離を告げた。
 想像から脇道に逸れることなく、彼女の精神に直結して従順な瞳は溜め込んでいた涙を滲ませた。信じられない、というよりは信じたくない、といった抵抗の光が反射して、僕を射竦める。罪悪感がへばり付いた声帯からはまともに声も出ない。どんなに覚悟していても、彼女の濡れたまなこを前にして平静を保つことはできなかった。
「……私、悟くんに嫌なことした?」
「そうじゃない……」
「なら、私のこと飽きちゃった?」
「んなわけ……!」
 あまりに真実から逸脱した憶測が降り積もっていくものだから、思わず声を荒げて否定しそうになる。その我を忘れた咆哮が飛び出た瞬間、頭頂部を殴られたような衝撃に襲われた。ひたすら逡巡していた思考が初めて頽れる。この別離に至るまでの過程で、僕は一度だってのせいじゃないと示した試しがあっただろうか。突然行方を晦ませて不義理を働いたような人間に、そんな誠意を示せるわけがない。つまり、はずっと僕が彼女に愛想を尽かして離れたと思い込んで、自責の念に苛まれていたということだ。自分の無神経な言行を自覚した瞬間、ぐにゃりと視界が歪んで酩酊したような錯覚が押し寄せた。
 の誤解を説き伏せたい一心で、彼女の肩を強く掴む。促されるままに首を擡げた彼女は、苦しげな吐息だけが精一杯の応答だった。
「……いつかは、俺に愛想を尽かして離れていくんじゃないかって」
「何で……どうしてそう思ったの?」
「……俺の一番近くにいた奴がそうだったから」
 世界から弾かれた迷子のように、けれど確かに自分の意思で踵を返していく親友の背中が、まざまざと蘇る。そして、為す術なく引き金を下ろすしかできなかった滑稽な自分の指先も。
 あの光景を思い起こすたび、何度だって新鮮に胸を引き裂かれそうになる。理解できなかった。弱者を慈しみ尊んできた筈の傑が、一体どうして弱者を間引く殺戮の引き金を引いたのか。引くしかできなかったのか。アイツの一番近くにいながら、抱え込んできた膨大な苦悩も葛藤も何ひとつとして知らなかった。そんな無知なる自分は何よりも無様だった。
 が傑と同じである保証なんてない。けれど同時に、絶対に違うと言い切ることもできない。同じ人間だ。そして、全く違う人間だ。呪いについて明かすつもりがない現状、理解や共感を得られない部分は傑以上に多い。その隔絶を少しでも埋めるために必要な対話や時間を設けることも、きっとままらならない。僕が術師である以上、が非術師である以上、この断絶が塞がることはないのだ。傑との別離を経た今、出自も生育環境も住む世界も異なる人間どうしの相互理解なんて、夢のまた夢のような気がしていた。
 みっともなく掠れて震えた僕の発露は、人々のさざめきに巻き込まれて地面に叩き落とされる。には伝わっただろうか。どう受け止めたのだろうか。傑の存在は、自分の意思を乗り越えて会話に滑り込んでいた。僕のくだらない話でも親身になって耳を傾けていた彼女なら、時折挟まれたアイツのことだと手に取るように把握したかもしれない。世間に楯突くほど気難しい性格の僕に傑がどれほど影響を及ぼしていたのか、は間接的に知っている。それでも、傑の本質も叛逆行為も知りようがない彼女にとっては、ただの喧嘩別れとかその程度の離別として捉えてもおかしくない。寧ろそれが普通の反応だ。やはり真の意味で理解を求めることが間違っている。だけじゃない。傑を失った虚無感を、生涯分かち合えない独り善がりな孤独を、誰かに理解されたいと思うことが間違っている。
 胸中で撹拌されていく矛盾ばかりの葛藤は、こうしてぶちまけたところで少しも昇華されない。鉛を飲み込んで胃の腑が荒れ狂うような不快感に取り憑かれたまま、の肩を引き離した。その瞬間、彼女の指先が僕の手のひらを絡め取る。攫われた指の隙間が埋め尽くされる感覚に、真向かいから淀みなく憂いなく飛んでくる視線の衝撃に、胸が熱くなった。僕を見据えるの眼差しは、いつもいつだって、こんなにも優しい慈愛が詰め込まれている。
「私……悟くんのこと何も知らない。悟くんが抱えてるものを理解できないし、苦しみも悲しみも分かち合えない」
「……」
「でも、人間なんだから当たり前だと思う。恋人でも親友でも……分かち合えないことも分かり合えないことも、たくさんあると思う」
 強く固く結びすぎて縺れてしまった結び目をひとつずつ丁寧に解していくみたいに、は続けた。意見を押し付けるでも言い包めるでもなく、閉じ籠もって他人を寄せ付けない僕の心を何よりも尊重してくれている。そんな慎ましい持論の中にも、彼女の揺るぎない本意が潜んでいた。
「そこで立ち止まりたくない。悟くんの全部を受け止められないから傍にはいられないって、そんな風には割り切れない」
「……、」
「……大好きだから。悟くんと一緒にいたい気持ちを、諦めたくない」
 自分が身勝手に傷付けられたことも、身勝手に突き放されたことも、まるで眼中にない。寧ろ植え付けられた痛みも刻み込まれた傷痕も、丸ごと抱きかかえて生きていこうとする鮮烈な決意だった。逞しいとか健気とか、そんな次元ですらない。何がそんなに彼女の意思を強くするのだろう。……いや、もうその正体にはとっくに気付いてる。はずっと、伝え続けてくれていた。斜に構えて躊躇してばかりの幼稚な僕とは裏腹に、彼女はずっと謙虚に一途に僕への愛情を示し続けてくれた。どうしてそれを疑うことができるだろうか。それ以外の理由がある筈ないのに。
 引き寄せる力は本当に微細なものだった。それだけで呆気なく、何の抵抗もなくは僕の腕の中に吸い込まれてしまう。熱い決意の代償のように、抱き締めた身体は恐ろしく冷たかった。ただでさえ細くて薄い彼女の全身が更に脆くなっている事実にも気付かされて、忽ち心臓が砕け落ちたように痛くなる。このか弱い存在は、肌が荒れて肉が削げて骨になるまで僕の帰りを待ってしまうのだろう。そんな現実的でない惨事の予感が脳裏を掠めて、息が詰まりそうだった。
「何もできない私も必要だって思ってくれるなら、絶対に離れない」
「……本当に?」
「本当だよ。私が傍にいて、悟くんが救われる瞬間がほんのわずかでもあるなら、絶対に」
 今更だった。もう幾度となく、随分前から救われていた。の存在が希望で、彼女への想いは愛そのもので、ふたりが一緒にいる未来は夢だった。その夢はきっと現実になる。そうであってくれなきゃ嘘だ。
 信じてみたかった。歩み寄ること、寄り添うこと、そしてそれらを諦めないと宣言した自身を。これから先、どんなにすれ違っても傷つけ合っても、信じようと思った。
 吹き荒ぶ木枯らしの酷薄な非難も、周囲から突き刺さる刺々しい視線も、その全てを跳ね除けるように僕はを抱き潰した。分かち合えない孤独の代わりに、この吐息と体温と心音を分かち合うために、ずっと抱き締め続けた。
 離れたくなかった。離したくなかった。あのとき強く抱いた望みに嘘はない。できることなら、とずっとずっと先の未来を歩みたかった。疲れて座り込んで休憩して、また立ち上がって。手を取り合って。そういう永久を信じたくなる未来を想像していた。いつまでも、そうしていたかったのだ。
 あの出逢いから三年半が経とうとしていた。は私立の短大に入学してから一人暮らしを始め、学業やバイトに精を出しながらも僕と過ごす時間を捻出してくれた。高専での生活も最後の年に差し掛かり、呪いと対峙しない空白の時間はそのほとんどを彼女と過ごした。堕落的といえばそうだし、献身的といえばそうだった。術師として生きる人生、その猶予を与えられるまでもなく、僕の生きる道は決まっていた。上層部の奴らの思惑に反した脇道に突っ込んでみようか、という嫌がらせじみた不躾な覚悟も程々に固まっていた。術師であろうが教職であろうが、高専を卒業してしまえば命をすり減らしていく余生の幕開けだ。彼女と触れ合う時間もすり潰されていく。寂しくさせる未来を予期しているからこそ、今持て余しているこの時間を可能な限り愛しい恋人に注ぎ込みたかった。
 さすがに全容を明かすことはできなかったけれど、教鞭を執る予定であるとは伝えた。ついさっきまで僕に揉みくちゃにされて、ベッドの脇にまで攻め込まれていたは、赤味を帯びた頬をにんまり緩ませた。くすくすと寝室を漂う忍び笑いが、鼓膜に染み込んでいく。抑え込んだばかりの嗜虐心が仄かに煽られた。
「似合わない?」
「ううん、初恋奪われちゃう生徒達いっぱいだろうなって」
 そういう心配もあるのか。てっきり、その軽薄な性格や派手な見た目は教師に向いてない、といった意味合いの笑みかとばかり。の一味も二味も違う思考を興味深く思いながら、汗ばんだ額に貼り付いた彼女の前髪を梳いてやった。まだ余韻の抜けきらないとろとろの瞳が、くすぐったそうに弛む。
「妬いてるんだ?」
「妬いて……るのかな?」
「どっちだよ」
 無理やり腰を引き寄せて、を腕の中に閉じ込める。この取るに足らないやり取りさえ愛おしそうに、彼女は微笑んでいた。
「それが悟くんの夢なら、応援したい」
 大層な夢でもないのに、純然な動機でもないのに、はそう囁いて僕の背中をさすってくれた。体温が擦れる。心音が重なる。この馬鹿げた理想とその先の未来について詳らかに語れなくても、僕の心に寄り添ってくれる彼女は、きっと誰よりも僕の夢を支えてくれていた。
 高専を卒業してからの血腥い日常は目まぐるしく僕を襲った。任務の量が格段に増える一方で顔を合わせる時間は滅法減ったが、は甲斐甲斐しく僕の安否を気に掛けてくれた。勿論、喧嘩が勃発しなかったといえば嘘になるけど、決定的な亀裂にまでは発展しなかった。何よりも彼女は誓い立てた約束を破ることなく、言い争った後でも必ず僕の傍にいてくれた。段々と、けれども着実に、あの日交わした愛情が呪縛と化している実感が湧いていた。離れないんじゃない、離れられないのではないか。この歪んだ世界に相当毒された妄想が脳内に棲み着く。本当に横暴の限りを尽くしている自覚はあるけれど、それなら寧ろ良かった。まだ青臭さを蓄えている生半可な人間もどきの僕は、どんなに姑息な手段を講じてでも、彼女が傍にいてくれたらそれで良かった。
 そういう利己的で排他的な思想で彼女を縛り付けておきながら、自分は道半ばで力尽きているのだから、本当に勝手だ。
 虚勢のつもりはなかった。どんな凶悪な敵にも打ち勝って、の腕の中に帰ってくる心積もりだった。それでも、胸中に居座っている一抹の不安は拭いきれなかった。戦闘の最中で無念の死を遂げること、或いはそれに準ずる瀕死の状態になること、――まともにさよならもできないまま彼女と別離を迎えること。これらの可能性をどれも否定しきれないくせに、決戦の前夜でさえもとうとう彼女に明かすことはなかった。できなかったのは偏に僕の愚かしい弱さのせいだ。彼女が悲しみに歪む顔を見たくなかった、僕の甘ったれた我儘のせいだ。残される彼女が明るい未来に舵を取るためには、そうするべきだった。間違いなく、疑う余地なく。
 いつの日か、から聞き出した与太話がある。初めての邂逅を果たしたあの日、彼女の腕の中を埋め尽くしていた白百合の花束は誰に向けてのものだったのか、という些細な疑問だった。彼女は緩やかに目を伏せて、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「お母さんの命日だったんだ。大好きなお花をお供えしたくて」
 あの日は幼い頃に病死した母親の命日だったこと、白百合は母親が好きな花だったこと、もう顔も声も朧気にしか思い出せないけれど毎年墓参りに赴いて自分の記憶に残し続けていること。微睡みに落ちる手前の柔らかい囁き声で、彼女はぽつりぽつりと話してくれた。
 非術師のが恋人ではない術師としての僕と接点を持たない以上、僕の命日を知る機会はこの先訪れないかもしれない。自ら消息を絶った前科のある僕を、部屋の隅っこで膝と共に一縷の希望を抱えてずっと待っている。大好きな花を手向けたら希望を捨て去る裏切りになってしまいそうで、それさえもできない。儚い願望に縋って次第に憔悴していく彼女の姿が、克明に思い描けてしまう。あの日貰い受けた一輪の白百合のように、枯れていく。
 出逢ってしまったから、好きになってしまったから、愛してしまったから。こんなにも別れがたく離れがたい。どうしたって、この未熟で幼稚な感情を断ち切れない。大切に育んだ愛が歪んだ呪いとなって、を永遠に縛り付けてしまう。呪いの残虐性に直面してきた僕こそが、彼女とそうなる事態を忌むべきだったのに。
 やはりずっと前から、最初から、出逢うべきじゃなかった。


 離れていく距離が、小さくなる背中が、僕を現実へと連れ戻した。視界でぱちんと火花が弾ける。魔法が解けたような感覚だった。恋は盲目だ。ならば、やはり愛は呪いなのだろう。解けないことを望んでいた。いたかった。
 この虚構か夢かも定かでない不可思議な世界でも、現実ではもう取り返しの付かない惨事が広がっていても、せめてこの世界のには幸せな未来を享受してほしい。大多数の人間ではなく彼女ただひとりのために自分の人生を捧げることができる、誠実なパートナーと出逢ってほしい。かっこつけすぎだろうか。でも、彼女の前ではいつも不甲斐なく不誠実な恋人だったから、最後くらいは見栄を張らせてほしい。
 無意識にを引き止めようと伸ばした指先が、力なく垂れ下がる。重力が全身に伸し掛かる。意識の削げ落ちた抜け殻のように呆然と立ち竦む僕を、無関心と迷惑が混在した表情の通行人達が横切っていく。もう運命の岐路でさえない、見知らぬ他人が行き交うだけのコンコースに用はないのに、爪先はぴくりとも動かない。親の意思に反して駄々を捏ねる子どものように強情だった。一刻も早く立ち去って、この禍々しい未練を捨て去ってしまいたいのに。
 ――悟くん。
 そんな折に、ふいに彼女の声が脳内に広がった。鼻腔の奥がつんと痛くなる。幻聴でしかない筈のその呼び声は妙に懐かしくて、なのに鮮明に縁取られて、胸の内側まで優しくて温かい過去の断片を連れてきた。
 ――そこで立ち止まりたくない。悟くんの全部を受け止められないから傍にはいられないって、そんな風には割り切れない。
 記憶に焼き付いている、真っ向から僕を受け入れようと言葉を尽くすの様子が再生される。痛々しいくらいにひたむきで、ひたすらに眩しかった。あの日の彼女が、追い掛ける誠意もなければ踵を返して背中を向ける決断力もない、優柔不断なだけの今の僕を咎め立てているようだ。自責を込めた握り拳が一層強くなり、爪が皮膚に食い込んだ。
 ――大好きだから。悟くんと一緒にいたい気持ちを、諦めたくない
 ……ああ、そうか。僕は今、真摯に向き合って大切に受け止めてくれたの気持ちまで蔑ろにしているのか。
 その気付きを閃いた瞬間、いてもたってもいられなかった。意思と乖離して矛盾の付き纏う欠陥だらけの肉体は、もはや操縦士でさえ制御できない。本能的に地面を蹴り上げて、喉を抉じ開けていた。
「……、」
 弱々しく枯れ果てた声は人混みの濁流に飲み込まれていく。正面から刺さる怪訝そうな視線を掻い潜って前進しても、一向にの気配は感じられない。残穢を辿ろうにも、初めて出逢ったばかりの彼女には何もこびり付いていない。あの偶然の一瞬を逃したばかりに、僕達はもう出逢うことさえ叶わなくなる。その絶望的な実感が脳にまで巡って、視界が真っ暗になりかけた、そのときだ。
 鼻腔を掠める、仄かな花の残り香があったのだ。心臓が一際大きくわななく。これまで僕を安心させるも惑わせるもお手の物だったその香りは、今回は誘き出そうという魂胆としか思えなかった。波間を縫って漂ってくる微香を頼りに、見えない背中に向かって駆け出す。コンコースを飛び出して陽光に貫かれた瞳は、逆光に歯向かって必死に彼女を探した。そしてようやく、ばら撒かれた花の香りの源泉を捉えることができた。ここまで助力を添えた五感ではなく、逸早く僕の本能が反応した。
「……っ!」
 今度こそ、自力で運命を引き寄せる。声を張り上げると同時に掴んだ手首は相変わらず細かった。どこにも行かせまいと強い力で捕捉した腕を、容赦なく引っ張って手繰り寄せる。背後から思いきり抱き締めた身体は、十何年も前だというのに僕の身体に馴染みすぎていた。これから先の彼女を知り尽くしているからこそ、余計にそう感じた。
 その恍惚に浸る隙もなく、はたと思考が停止する。そうだ、このは十何年も前の、僕と付き合ってすらいない彼女だ。知人ですらない他人に名前を叫ばれながら抱擁されてみようものなら、不審者だと駅前の交番に突き出されてもおかしくない。背筋から滝のような冷や汗が滑り落ちる。何と釈明すべきか、何から話すべきか、混乱した脳内は忙しなく錯綜した。けれど、予想に反して彼女は僕の回した腕にそっと両手を添えたのだ。振り向きがちに僕を見上げた彼女は、瞳の水面にたくさんの光の礫を泳がせた。知っている。僕のよく知る、僕にだけ向けられる甘く切ない眼差しがそこにはあった。
「……良かった。悟くん、もう私のこといらないのかと思った」
 深い安堵の吐息を溢したは、口唇を震わせながら柔く微笑んだ。その呟きは彼女の中身が学生時代の彼女ではない、僕と十何年もの月日を共に歩んできたであることの証明だった。途端にわけがわからなくなる。死後の世界に転じたとして、彼女への罪悪感からこんな都合の良い虚構を築いてまで自分の罪業を正当化することが許されるのだろうか。或いは死にゆく瀬戸際に見る夢? ただ、六眼なんて行使せずとも分かる。この世界が現実ではない非合理的な世界だとしても、目の前の彼女だけは本物であるということ。その事実だけは、根拠もないのにはっきりと断言できた。もしこの現象に根拠を添えるのならば、それはこの世界が現実ではない不可思議な世界だから、と言う他ない。
 何度も距離を置いても突き放しても寛大な心で寄り添ってくれたは、今回も僕の身勝手な振る舞いを許容してくれるのだろう。それでも傍にいると曇りなきまなこで誓ってくれるのだろう。でも、未来の先に僕はいない。一生大切にすることも守り抜くこともできない。そんな僕が、彼女の傍にいても良いのだろうか。有限な時間をすり潰して、僕と一緒にいるより遥かに明るく健やかになる筈だった人生に割り込んでも良いのだろうか。この倫理に基づく正論をかなぐり捨てでもと一緒にいたい本心から彼女を抱き寄せたのに、この期に及んでもまだ踏み込みきれない。拗れた不安は見栄でも何でもなく、彼女を想うがゆえのもうひとつの本心だった。
「……いらないわけ、ない」
「うん」
「でも、僕の傍にいたらは……、」
 一呼吸置いてみても、そこから先に伸びる言葉は滞留して発露を拒んでいる。将来、独りぼっちになる。寂しい思いをさせる。僕の手では幸せにできない。自身でさえ未だに受け止めがたい事実を突き付けるのは、あまりに残酷ではないだろうか。それも、もう僕との離別を二度も経験させてしまった彼女に向けて。これほどまでに壮大な独善もないだろう。
 ただ、どんなに僕が思い悩んだところで、の決意は揺るがない。梃子でも動かない。彼女の瞳が僕から逸れることはない。とっくに分かっていたことだ。一途に素直に、僕への愛を伝え続けてくれる。例えこの先の未来が途絶えてしまっても。
「悟くん、何があっても後悔しないで。私も、あなたと出逢えたことも恋をしたことも、ずっと後悔しない」
「っ……」
「だから、何度でも私のこと呼び止めて。そしたら、次は私が迎えに行くから」
 振り返ったの澄み渡った青空のような眼差しが、白百合のように凛とした告白が、僕を射抜いてくる。暗闇から救い出してくれる一縷の光となる。ずっとそうだった。彼女から貰い受けた深くて温かい愛に応えるように、改めて正面から抱き締めた。これから引き裂かれる運命に抗うように、強く強く。花の香りが色濃く僕の鼻腔を埋め尽くしたとき、弾かれるように涙が溢れていた。悲しくはない、優しい味だった。
 分かち合えない孤独も、逃れられない別離も、その全部をは受け止めてくれる。享受して、それでも僕を選んでくれる。
 傍にいてくれるだけで、微笑んでくれるだけで、救われていた。全部を分かち合う必要も、全部を分かり合う必要もない。理解への渇望だけが生ではなかった。満たされなかった人生の中で、の存在によって保たれていた僕の人間臭く青臭い感情が、好ましくて心地良かった。そういう自分を引き出してくれたのは、紛れもなく彼女だ。
 一緒にいたいと願うからこそ、顛末を知っていても僕はを引き止めてしまった。繋ぎ止めてしまった。あの日の偶然の続きを、醒めない夢の続きを、無謀だと分かっていながら希ってしまう。どんなに辛くても悲しくて受け入れがたい結末が待ち受けていたとしても、それでも。との出逢いが間違いだったわけがない。それを信じたいから。彼女が、信じさせてくれるから。
 迷わない。後悔しない。あの一輪の白百合のように枯らしてしまいたくない。この世に永遠がなくても、この愛だけは永遠だと証明してやりたい。何度だって、君と出逢って、恋に落ちて、愛を知る。僕がこれからもこれまでも、人間という枠組みで息をする、五条悟でいるために。

2023/10/20