無限の愛/不朽の愛
 一晩中触れ合って皮膚が溶け落ちそうになるくらい貰い受けた熱が、朝方には跡形もなく消え去っている。
 何度も生き急ぐような荒い吐息をまぶされて鼓膜が溺れてしまっても、翌朝には虚しく干乾びている。
 カーテンの隙間から侵入した朝日に急かされて目を覚ましたとき、寝床は既にもぬけの殻になっている。起き抜けに彼が被せてくれたであろう厚手の毛布が、私の遣る瀬ない寂しさを包み込んでくれている。
 そういう日常に慣れてしまった自分は薄情だと思う。平穏に浸りすぎて、感覚が麻痺している。その事実をまざまざと突き付けられる。
 私の恋人は、最強だ。それは至高の術式だけに限らない。超越したフィジカルやメンタルを兼ね備えていて、それらを十全に発揮できる知性も冴え渡っている。彼の強さを目の当たりにしてきた人達なら誰しもがこう思っている筈だ。負ける筈がない、と。特級呪霊も両面宿儺も、全ての呪いをあの指先から放たれる希望で薙ぎ払ってしまうのだと。私も、そう思っていた。
 悟くんが、封印された。
 その事実を通達されたとき、まるでこの世から重力が消えたような感覚に襲われたのを覚えている。指先から力が抜けて、唇がわなないて、喉奥が渇いていく。脳内は真っ白に染まって、そこに思考が挟まる余地もなかった。夢か現実かも分からないまま家路に就いて、よろめく身体をソファに擲った。目蓋を閉じた瞬間には朝を迎えていて、服も化粧も昨日のままの自分だけが横たわっている。「疲れたね」なんて耳元に吹き込みながらベッドまで運んでくれた彼も、毛布を掛けて「おやすみ」と囁いてくれた彼も、そこにはいなかった。明日からも、ここにはいない。そこでようやく、枯れ果てていた私の涙腺が機能した。視界から光がなくなるくらいに咽び泣いた。世界から私の光が途絶えた日は、永遠のように途方もなく長かった。
 当たり前になっていた。例え同じ朝を迎えられなくても、任務に向かってしまっても、強大な呪いに挑んでも。それでも、いくつか日を跨いだ夜には私の元に戻ってきてくれる。屍ばかりが転がる血みどろの世界で、そんな因果も根拠もない身勝手な夢を、描き続けていた。日常が壊れるのはいつだって一瞬で、呆気ない。
 夜は眠れなかった。朝を迎えるのが怖かった。でも、悟くんのいない日々が日常になっていくことが、何より恐ろしかった。
 結果として、慣れることはなかった。そうなる前に私の地獄は中断された。羽休めのように、一時的に。
 獄門疆の解呪が決行された日、逸早くこの目で無事を確認したい一方で、どうしても家で待っていたい思いもあった。一ヶ月にも満たない悪夢のような期間が私をそうさせた。彼の帰還がけして順当なことではなく、たくさんの犠牲や仲間の苦労があってのこと。当たり前ではないことをこの身に痛感させるために、心の準備が必要だった。胸の前で両手を組んで、時計の針の音だけが漂流する玄関の前で蹲った。
 そうして、運命の流れ着く音がする。マンションの廊下は物音ひとつしなかったのに、ドアノブだけがゆっくりと回る、微かな音だった。光が兆す。もう秋も終盤に差し掛かっているのに、外から舞い込んでくる光芒は目映く、そして暖かった。神に誓いを立てる人達とは、このような心境なのだろうか。たった一縷の望みが目の前に顕現する。そのことを夢に見続けている。場違いながら、そんなことが脳裏を掠めた。
「ただいま」
 その姿を見留めた途端、その声を聞き届けた瞬間、胸の内側から何かがとめどなく溢れ出ていく。張り裂けそうなくらい心臓が痛い。目頭が熱くて堪らない。感極まって立ち上がれない私を見兼ねて、彼は同じ目線にしゃがみ込んでくれた。何も変わらない。ただひとつ、世界でたったひとつだけ、私の望んでいたもの。美しく澄んだ瞳で私を覗き込む悟くん以外、望むものなんて、何もない。
 波立って言葉にならない感慨を押し付けるように、私は悟くんの胸元に飛び込んだ。太い首筋に腕を絡ませて、膝立ちになって、身体の隙間も離れていた時間も丸ごと埋め合わせるように。もうどこにも行かないで。傍にいて。離れないで。そんな浅ましい願望を詰め込んだ抱擁を受けた彼は、心底嬉しそうな熱い吐息を溢した。
「ねぇ、ちょっと。こんな熱烈なおかえりしてくれたの初めてじゃない?」
「大好き、悟くん」
 返事になっていなかった。でも、今は素直な感情を吐露することしかできなかった。込み上げてくる涙と戦いながら振り絞った声は、弱々しくて聞くに耐えなかった。それでも悟くんは、壊れるくらいに強く強く私の身体を抱き締めてくれた。
「僕も好きだよ。大好き。心配させてごめんね」
 あの小さな箱庭に閉じ込められていた間、冷え切った身体は、独りになった心は、どこにあったのだろう。何を思っていたのだろう。彼の体温を受け止めながら、そんなことに思いを馳せた。悟くんの身体も心も温まる日々が早く訪れてくれますように、と祈りながら、逞しい腕の中で身に余る贅沢に浸っていた。
 私にとって、かけがえのない特別な日常が戻ってきた。けれど、無論、これでめでたしめでたしというわけにはいかない。為すべきこと、守るべきもの、たくさん残っている。生還を喜ぶ暇もなく、悟くんはまた戦場に出向くための準備に取り掛かった。必要なことだ。彼は生まれもっての術師だから。救うことを諦めないし、導くことに励んできた。私も、救われ導かれた内のひとりだ。悟くんの歩みを止めることはできない。元凶の呪詛師にも、史上最強の術師にも、きっと誰にも。
 決戦前夜は雨が降っていた。地上を濡らす陰鬱な湿気とは裏腹に、私の部屋に転がり込んできた悟くんは至って普段通りだ。緊張感も焦燥感もまるで感じられない。王者の貫禄とでもいうべき明朗な余裕が満ち溢れている。こんな大事な夜を私に費やしてしまっていいのかと、こちらが心苦しくなった。
「……私にできること、何かある?」
 サングラスを外してソファで寛いでいる悟くんの隣に座って、そう尋ねる。我ながら、どんな自負があって口走っているのだろう。一通りのことを器用に熟してしまう天才肌の彼に対して、気軽に投げ掛けて良い台詞ではない。呆気に取られて目を丸くする悟くんの表情が、私の脳内に正気を流し込んでいく。
「あの、本当に、何でもよくて。悟くん疲れてるだろうから、できることなら何でも……」
 しどろもどろになって釈明するも、ただ訥々と繰り返しているだけで何の弁明にもならない。頭ではそう理解しているのに、舌が暴走して追い付かなかった。悟くんの冷静な眼差しが額に突き刺さって、羞恥に拍車がかかっていく。やがて、彼はふっと微笑混じりの吐息を落とした。
、僕に抱かれたいんだ?」
 喉がひゅっと切り裂かれたような心地がした。急速に頬に熱が蓄積されていく。私の提案は重責を担っている悟くんの気を紛らわせたい一心だったけれど、彼のその推察自体は否定できなかった。愛する人と、最後になる前に爪先から指先まで全身で触れ合いたい。でも、この願いは冒涜そのものだ。私が悟くんの勝利を信じきれていない証明となってしまいそうで、誘惑するなんて考えてもみなかった。けれど、彼は私の卑しい真髄を見透かすくらい造作もないのだ。そう思い知らされた。
 気が動転して心臓がふやけていくような心境の私に反して、悟くんはずっと柔らかく微笑んでいる。待ち構えているのだ。チーズを罠にして鼠を捕獲しようと目論む猫のように。降参するしか手はなかった。
「……悟くんじゃないとだめな身体にしてほしい」
 やけくそに吐露した瞬間、肌一面が毛羽立った。自分の媚びた言動が生々しくて耳を塞ぎたくなったのもあるが、それ以上に、眼前から差し迫る獰猛な熱気に圧倒されたのだ。悟くんは、初めて苦手なアルコールを口にしたときのように目が据わっていて、感情を削り落としたような真顔だった。静かな水面みたいに凪いだ双眸には、困惑した顔付きの私だけが映り込んでいる。この広大な世界でたったひとり、私だけを見つめている。
 背骨が淡く疼いた。心臓を鷲掴みにされている感覚だった。恐怖という感情を越えて、興奮している自分がいた。絡み合った視線が解かれるのは少し寂しくて、強引に唇を塞がれるこに抵抗はなくて、熱い舌に口内から酸素を奪われていく感覚は麻薬のようだ。徐々に脳内がとろけていく。再び目と目がぶつかったとき、血走った熱いまなこを受け止めたとき、全身全霊が彼のものになりたいと叫んでいた。
 上着を脱いで露わになる筋骨隆々な上体に、何のしがらみもなく押し潰されてしまう瞬間が好きだ。
 丁寧に衣服を脱がせてくれる手指が、その役目を終えた途端に荒っぽく私の手首を押さえ付けてくる瞬間が好きだ。
 約束しているわけでもないのに、行為の最中何かに付けて施される無償の口付けが好きだ。
 どうしたって、何をされたって、私は悟くんのことが好きだった。
 悪びれもなく肌の至る所に痕跡を残したその口は、濁流のような熱い呼気を私の皮膚に浸透させた。いつもより苦しそうで切なそうで、それなのに腰の動きを止めないで私を抱き続けてくれる悟くんのことが、堪らなく愛おしかった。汗ばんだ色素の薄い髪をかき抱いて、熱を帯びた身体をくっつけ合った。お互いの粘膜を擦り合わせて、果てて、また引き寄せあって。そういう永遠を信じてしまいそうになるセックスを、何度も繰り返した。本当は永遠なんてないと知っているのに。悟くんの優しくて力強い腕に揺すられながら、このまま時が止まってしまえば良いのに、と身勝手に願っていた。
 あの麻痺していた日常には戻れない。私はもう、彼を失う恐怖を知ってしまった。この温もりを手放したくない。もうずっと前から、私は悟くんじゃないとだめな身体になっている。
 用意していた避妊具を使い終えても尚、中に欲しいとせがんだ私に、悟くんは困ったように笑った。前髪をかき分けて、額に宥めるようなキスを落とされる。直接入れることへの嫌悪というより、息も絶え絶えで今にも意識が途絶えてしまいそうな私への配慮が窺えたから、はしたない口を噤むことしかできなかった。そんな私に上擦った声で「かわいいね」と囁いた悟くんは、私の要求を埋め合わせるみたいに何度も唇を重ねてくれた。
「僕の方が、じゃないとだめな身体になっちゃったな」
 行為が終わってシーツに包まりながら彼の膝元に座らされたとき、悟くんは感慨深そうに呟いた。彼の言葉に虚偽が紛れていた試しはない。だから勿論、信じてはいるけれど、疑ってしまう自分も確かにいた。背後から抱き竦められながら、自分の不甲斐なさを噛み締めていた。
「ほんとに?」
「本当に。これだけ一筋なのに、伝わってないかなあ」
 伝わってるよ。悟くんが私のことをたくさん慈しんで、たくさん愛してくれていること。だからこそ、不安になってしまう。あなたがいない夜を過ごすこと、あなたがいない朝を迎えること、こんなにも怖くなってしまった。弱くなってしまった。こんな私なのに、悟くんはずっと好きでいてくれる?
を独りにしちゃった僕の言うことなんて信じられない?」
 そんな自虐めいた問いに対しては、素早く首を横に振った。信じてる、信じたい。でも、信じることが怖い。その恐怖を胸の奥底にしまい込むように、彼の腕にぎゅっとしがみついた。
 でも、やっぱり、悟くんは何だってお見通しなのだ。私が覆い隠した胸の内を、六眼を行使せずとも見透かしてしまう。そして、この暗雲じみた不安を希望の光で掻き消してしまうのだ。
 肩を掴まれ、後ろを振り返る。壁際に寄り掛かっている悟くんは、窓から薄く洩れる月光に曝されて、殊更に美しく輝く。いつの間にか雨音は止んでいた。
「信じて、僕のこと」
 力強く、勇ましく、自信の漲る声だった。彼は下手くそな作り笑いを貼り付けて、私を正面から抱き寄せた。
 視界が潤みを帯びていく。こんなに幸せな涙があることを知らなかった。静かに頬を伝う雫が、彼の肌を滑り落ちていく。
「ずっと君の傍にいる。必ず帰ってくる。信じてもらえるまで、何度だって永遠に誓い続けるよ」
 根拠なんて必要なかった。どんな逆境でもきっと跳ね除けてくれる。そんな希望と自信に満ち溢れた彼の言葉が、信じられないわけがない。私こそ信じなくてはならない。いつだって、悟くんは私の元に帰ってきてくれたのだから。今回も必ず、因果も運命も打ち破って、私のところに駆け寄ってきてくれる。
 かさついた指の腹で涙を拭われる。目蓋に落とされた唇がこそばゆい。胸に秘めていた恋しさを打ち明けるように、私も悟くんにたくさんの口付けを送り付けた。
 明日の朝には跡形もなく消え去っている温もりが、忘れ去ってしまう感触が、今だけのものだとしても。この先ずっと、それこそ永遠に私を愛おしんでくれる悟くんのことを信じているから、彼を笑って送り出そう。
 例え何があっても、どんな過酷な未来が待ち受けていても、私はずっとあなたのことが好きだということ、どうか忘れないで。

2023/09/27