愛って苦くて苦しい
※成人女性✕未成年の描写

 事件とは発見者がいなければ成り立たない。犯人がいて犯行現場があったとて、それ自体が秘密という名のベールに包まれてしまえば発覚にすら至らないからだ。証拠さえ残さなければ、いとも容易く完全犯罪は成立する。本件の被疑者は最初から最後まで抜かりなく跡形もなく悪事を遂行していたが、ようやく今日になって尻尾を出した。
 静かに開け放たれた掃き出し窓の隙間から、冷ややかな外気が滑り込んでレースカーテンをどよめかせる。ついでに俺の皮膚を掠めた冷気は、目蓋にしがみつく睡気を連れ去ってしまった。さっみぃ、とひとりでに苦言が溢れ落ちる。しかし、その独り言は誰に刺さることもなく霧散した。耳を傾けてほしかった相手は、分厚いガラスを隔てた先で優雅に夜行浴を謳歌している。この愚痴を聞き届けることは物理的に不可能だった。華奢な背中と夜風に靡く髪を薄目に眺めながら、微睡んでいた意識を覚醒へと導いていく。すっかり俺の思考が正気を取り戻した頃合いに、折り良く彼女は寝室へと帰還した。忍び込んできた素足に青白い月光が溶け込んでいく。先程まで散々開かせては暴いていた太腿に釘付けになっていると、お粗末な視覚に代わって嗅覚がうっかり事件の臭いを嗅ぎ取ってしまった。彼女と共に雪崩れてきた微風には、仄かに煙草の香りが紛れ込んでいたのだ。そのことを認識した鼻腔は途端に不快感を示す。ああ、またこのひとは緩やかな自殺行為に励んだのか。それも俺の許可なしに。腹の奥で膨れ上がる癇癪玉のおかげか、却って脳内は冷静だった。証拠隠滅を図ろうとする犯人を確実に仕留めるため、息を潜めて機会を伺う。ベッドの上で狸寝入りを決め込む俺なんて全く目もくれず、そそくさと寝室を抜けようとした彼女に背後から掴み掛かった。狙いは右腕、その手に収まる空き缶だった。燃え尽き損ねた吸い殻を隠蔽するにはもってこいの隠し場所だ。想定通り、力を込めれば折れてしまいそうな細い手首を捕捉することは造作もなかった。呆気なく空き缶を奪われて、おまけに再びシーツの上に押し戻された凶悪犯は、わざとらしく目を瞬いて感嘆の吐息を洩らした。
「……見つかっちゃった」
 まさか、泳がされていたのだろうか。餌をぶら下げて、欲に目が眩んだ魚が食い付くのを待ち構えていたのだろうか。この状況にそぐわない嬉々とした声色と余裕を含む笑みが、俺にそんな当惑を抱かせる。背骨が震えて唇はひくついた。倒錯的な情動に駆られながら再認識する。組み敷かれても尚劣勢を感じさせずにたおやかな微笑を湛える彼女――さんは、やはり魔性の女であると。
 こんなのはブラフだ。今更焦る必要なんてない。どんなに完璧な笑顔で取り繕ったところで、彼女が言い逃れのしようがない窮地に追い詰められている事実は揺るがないのだから。それなのに、俺の中心を司る心臓はまんまと術中にはまって錯乱している。煩わしいったらない。喧しい鼓動を黙らせるように口火を切った。
「あれだけ吸うなって言ってるじゃん」
「悟くん、怒ってる?」
「……呆れてんの」
 全くもって反省の色が窺えない、それどころか俺の不貞腐れた反応を慈しむような視線を寄越すさんに、文字通り呆れ果てている。度重なる厳重注意を破っておいて、よくもまあ平気な顔で押し倒されていられるものだ。腹に据えかねて今にも舌打ちを落としそうな俺と対極を行く彼女に、もはや感心さえしてしまう。俺自身も身勝手を貫いて周囲を蹴散らす人生を歩んできた自覚はあるが、それにしたってさんは桁違いだ。常識に囚われないで自由を満喫するこの放逸な生き物とは、生涯相容れないだろう。理解の域を優に越えていた。
 さんは、重度のヘビースモーカーだった。過去形なのは形式上で、否定している本人の意思を一応尊重してやっての表現だ。実際には疑うことなく現在進行形である。出逢った頃から彼女の甘やかな香りには常に不快な煙草臭が絡み付いており、愛煙家の片鱗をちらつかせていた。高専の廃れた喫煙ブースに居座る横顔を目の当たりにしたときは、隣の傑に「死人みたいな顔だよ」なんて揶揄されたものだ。清純そうな見目を霞ませる紫煙は、円熟した大人の女性を演出するのに最適で、それが却って腹立たしかった。俺にあどけない笑顔を振る舞いながら、自分はちゃっかり大人の嗜好に手を出して没入しているのだ。勝手に裏切られた気分に浸るくらいは許されて当然だろう。そして十中八九、さんに煙草の味を教えて自分好みに染め上げた害悪な輩がいる。その事実が透けて見えるから、余計に忌々しかった。この時点で俺はもうだいぶさんに首ったけで、自制心に愛想を尽かされるくらいには恋に酔いしれていた。
 なりふり構わず猛追するようになって、根負けしたさんから恋人の称号を授かり受けたのはつい最近のことだ。「みんなには内緒だよ」と口添えをしてはにかんだ彼女を独占できる、その実感を噛み締めて自惚れたし調子にも乗った。容姿も声も知らない悪質な男は所詮過去の男で、今後正史に名を刻むこともないのだと思うと、それだけで気分が良かった。当時の俺は甘かったし青かった。そんな簡単に愛の呪縛を断ち切ることができるなら、こんな面倒なものに誰も夢中にならない。
 他人の嗜好に口出しするほど無礼講な人間ではないが、こうして恋人の地位にまでのし上がったとなれば話は別だ。過去の男の名残を拭い去りたくて、許される限りの我儘を使い尽くした。特に禁煙に関しては口酸っぱく念押ししてきたけれど、さんは形だけの了承でお茶を濁すだけだった。一緒に過ごす時間は確かに煙草を咥える素振りこそなかったものの、風に靡く髪先にも、脱がせる衣服にも、しっかり喫煙の痕跡が残っている。目だけでなく鼻も聡いのだ。誤魔化せると思ったら大間違いだ。もしかしたらあの有害男と密かに逢引を繰り返していて、その移り香を持ち帰っている可能性も否定はできないが、実在しているのかも曖昧な架空の男を口実に詰め寄るほど腐り果てた性格ではない。だから、不信感を募らせて目を尖らせるのみに留めておいた。そうした矢先にこの事件が飛び込んできたものだから、俺としては激昂するべきか胸を撫で下ろすべきか判断に困ってしまう。いや、一向に悔い改める気配のないさんのこの態度を前にしたら、怒り狂っても罰は当たらない気がするけども。
 さんが羽織っていた防寒着のポケットを弄ってみると、そら見たことか、開封済みの煙草まで出てくる始末だ。これだけ証拠が揃えば立件も射程圏内だろう。ふざけてる。握力を最大限まで駆使してそれを握り潰すと、ベッドサイドのゴミ箱へと放り投げた。見事に投下して邪魔者の排除に成功する。一連の流れを見届けていた彼女は、悲しいのか恨めしいのか微妙な視線を泳がせた。泣きたいのはこっちだっての。つい皮肉を添えて傷付けたくもなる。
「あいつのどこが好きなわけ? 不味いし臭いし肺は腐るし、最悪づくめ」
「そう思えるなら、悟くんはまだまだ若い証拠だねぇ」
 そんな俺の目論見なんて意にも介さず、堂々たる笑顔を撒き散らす彼女が憎らしくて堪らなかった。若いなんていう、俺の力では埋めることのできない年齢差を振りかざす言葉が余計に神経を逆撫でする。そんなものでこの騒動を収めようとするな。湧き上がる鬱憤を移し替えるように、俺はさんの唇に噛み付いた。
「わっ、んぅ」
 打算も駆け引きもない、衝動的な征服欲だけが俺を突き動かす。柔らかい口唇を舐め回しながら奥へと侵入すると、熱い粘膜に出迎えられた。舌先を絡めて吸って擦り付ける、そんないつものキスの手順にはどこまでも不愉快な味が追い掛けてくる。まっず。何だってこんな味を好き好んで摂取したくなるのか。本当はニコチンの依存性以上に、美化された思い出とか名残惜しい男の余韻とか、そういうもの達に縋り付いているんじゃないだろうか。根も葉もない憶測が頭を掠めただけで、気が触れそうになる。理性の警鐘にはそっぽを向いて、一心不乱に口内を踏み荒らしてやった。煙草の味を俺の味で塗り替えるように、何度も何度も時間を掛けて。丁寧に緩やかに酸素を奪っていくと、さんの抵抗が一際強くなる。そろそろ潮時か。こんな脆弱な力を跳ね除けるのは簡単だけど、彼女の意識まで飛んでしまっては元も子もない。やむなく引き上げると、さんはありったけの酸素を求めて口唇を戦慄かせた。土砂降りの窓よりも濡れた瞳が、俺の野蛮な表情を映す。発情期のけだものに貪り尽くされて可哀想だなと同情する反面、こんな性欲に溺れる化け物を育て上げたのは紛うことなくさん本人だから、自分で蒔いた種ともいえる。彼女は繰り返し胸を上下させると、どうにか本来の呼吸の作法を取り戻した。とっくに笑顔は剥がれ落ちて、恨めしそうな視線が寄越される。
「……お行儀の悪い子になっちゃって」
さんの躾がなってないんじゃないの?」
「反省します」
 全くだ、と頷きながらさんの腕を引き、脱力していた上体を起こしてやる。細こい身体の軟弱な生き物は、俺の一撃を受けただけで心身共に弱り果てていた。涙をいっぱいに溜め込んだ眼差しは、光を取り込んで揺らめいている。十分に征服欲が満たされたおかげか、その悩ましげな表情ひとつで俺は快い気分になった。我ながら単純だ。
「反省してほしいのは、こっちもだけど」
 単純だけど、だからと言って手加減してやるほど甘っちょろい男でもない。捜査は綿密に、取り調べは徹底的にが信条だ。片手を塞いでいた空き缶をわざとらしく揺する。底の方で微かな質量が音を立てた。この奥底に眠っている煙草が、一本二本でないのは明白だ。さんはわずかに狼狽えて、ばつが悪そうに目を伏せた。濡れた子犬みたいに項垂れて服従心を示しても、だめなものだめ。こっちにも躾が必要みたいだ。
「悟くんは信じてくれないかもだけど、これでも煙草の量は減ってきてるんだよ」
「止められないひとの言い訳だろ?」
「手厳しいなあ」
 情状酌量の余地はないというのが俺の判決である。遠慮を置き去りにして、ずけずけと物申していく。さんは困ったように首を傾けて、苦笑を浮かべていた。その表情に絆されて堪るものか。悟られぬよう気を引き締めるが、その機微の変化すら手玉に取ってしまうのがという女の恐ろしいところだ。彼女は薄い唇を柔く弛ませた。
「煙草よりずっと依存性のある人に出逢っちゃったから、もうちょっとで止められそうなんだけどね」
「……はぁ?」
「その人のちゅーが好きなの。気持ちよくて骨抜きにされちゃうんだ」
 反旗を翻して逆襲へと踏み切った女とは、こうも生き生きと輝くものなのか。俺が喉から手が出るほどに欲していた言葉を増産して、巧みに並べていく。正しく悪女を体現した存在だった。混乱した思考では処理しきれそうにない。ただ漠然と口角だけが持ち上がるのを感じる。
 過去の恋愛とか、昔の男とか、そういうくだらないものに囚われたところできっと無意味だ。さんに囚われてしまった以上、彼女に翻弄され続ける運命に変わりはない。俺が倒すべきは煙草でも男でもなく、目の前にいたのだ。逆立ちしてもこの口先にだけは敵いそうにないけれど。
「悟くん、私の肺が腐りきる前に煙草やめさせてね」
 彼女も彼女で相当な被虐体質なのだろう。安っぽい挑発を絶え間なく惜しみなく降り注いでくる。こうまで煽られて引き下がれるもんか。俺の血気盛んな気質を逆手に取った戦法に、分かっていても乗らずにはいられない。好きな女に求められること、それに勝る至高があるわけない。連々と駄々を捏ねくり回した思考を停止させて、壊れ物を扱うように細い腰を引き寄せた。
 まずはお望み通り、骨抜きにしてやるところから。この事件の顛末はそんなもので十分だ。

2022/12/07 おめでとう!