水底で踊り明かそうよ
 今夜の秋風はいつもより猟奇的で陰湿だ。粘り強かった残暑の息の根を止めて季節を掌握した主犯とくれば、その暴威は体感せずとも伝わるだろう。身体にこびり付いていた余熱なんてとうの昔に吹き飛んで、今はもう肌寒い外気に脅かされていた。良かれと思った薄手のTシャツとショートパンツの出で立ちが完全に仇となっている。剥き出しの肌には数多の掠り傷が刻まれて、さっき体内に植え付けられたばかりの真新しい傷痕には、これでもかと塩を塗り込まれている。そんな錯覚に襲われて唇を噛み締めてしまうほど、今の私は憔悴しきっていた。
 悟と駆け抜ける一夜は、熱情的な映画のようで、願望に染まる夢のようで、そして、どこか重く切なく息苦しい。まるで光も音も届かない深海に沈められたような、そんな感覚を呼び覚ます。
 学生服に袖を通していた頃からそれなりに気兼ねなかった私達の関係は、半年近く前を機に一変した。確執が生まれたとか、他人行儀になっただとか、そういうわけではない。寧ろその逆で、誰も触れたことのないような深淵の奥深くまでのめり込んでしまった。もう後戻りさえ許されないほどの深部に迷い込んで、ひとり、藻掻いている。
 悟が親友に手を下せなかった日、私は彼の傍にいることしかできなかった。悟が有する底なしの孤独を知っていながら、絶望の癒やし方も、空洞の埋め方も分からなかった。私みたいな凡百の人間がどうにかできると思うこと自体がおこがましいと、そう思っていた。あれから幾年もの月日が流れて、ついに悟は親友に手を下した。世界の命運を握る彼の指先が、あの日のけじめを果たしたのだと察した瞬間、その手を繋ぎ留めずにはいられなかった。目に見えない血で濡れた指先は一瞬たじろいで、優しく私を迎え入れた。静まり返った一室に響いた包帯の落ちる音だけを、鮮明に覚えている。腰を抱き寄せられて、唇を奪われて、それから、そのまま。
 悟が求めることでほんの少しでも満たされるなら、孤独を紛らわすことができるなら、いくらでも捧げたかった。清くはない心も、美しくはない身体も、持ち合わせで足りるなら、全部ぜんぶ。そう意気込んでいた過去の自分を踏み躙って、事後の汗を洗い流している恋人を置き去りにして、今の私は真夜中の逃避行に走っている。夜道を照らし出す青白い満月だけが、黙認して私の非行に付き合ってくれていた。
 身体を重ね合わせた先に待ち構えていたのは、高揚感でも多幸感でもなく、ただ寂しいという漠然とした感情だった。愛しい人が自分を求めてくれるだけでも満足して然るべきなのに、その境地に至れないでいる。眉を寄せて切なげに瞑目する悟の脳内が、一体何で埋め尽くされているのか、想像することさえ拒絶してしまう。いつから私はこんなに身勝手で弱虫な女に成り果ててしまったのだろう。悟を蝕む全てのものから彼を守りたいと、その心意気ひとつで傍にいることができた筈なのに。
 溶け合っていく熱も囁かれる愛の言葉も、もはや麻薬だった。正常な思考を紡げなくなる。依存して、抜け出せなくなる。どんなに辛くても苦しくても、独占欲で身を焦がしそうになっても、離れがたいほどに。
 あてどもない放浪の行き詰まりは、すぐそこにあった。闇世の中に気配を感じる。目の前に、いる。驚嘆混じりの吐息が、すれ違った自動車の騒音に飲まれていく。前照灯によって浮かび上がったしろがね色が、寡黙な夜を切り裂いた。
「遅れてやってきた反抗期はおしまい?」
 冷たくはないけれど優しくもない、判断に困る声だった。この愚行を反抗期なんて称すあたりが悟の捻くれた性格を如実に表している。普通シャワーを浴び終えて部屋に恋人の姿がなかったら、愕然として憤慨してもおかしくないだろうに。この余裕は呪力の残滓を可視化する六眼によって追跡できるという理由からか、それとも私が悟から離れる筈がないという自信からか。どちらにしても、彼に居場所を嗅ぎ当てられてしまった以上、この逃避行は終幕だ。張り詰めていた緊張の糸がぷつんと途切れる。諦めて降参の意を述べた。
「……悟に見つかったら、おしまいにするしかないでしょ」
「そうかなあ? 今からでも逃げ切れるかもよ? 今日の僕、誰かさんがかわいくて張り切っちゃったし、もう体力残ってな〜い」
「……」
 慎みの欠片もない冗談を飛ばしながら、悟は緩やかに私の元へと歩み寄った。自分が身に纏っていた色彩の乏しいウインドブレーカーを、私の肩に羽織らせてくる。ご丁寧に、私の腕を掴み上げて袖に手を通させてくれる接待付きだ。着せ替え人形にでもなったつもりで、その厚意に甘えて防寒着を装備した。しっかりファスナーを最後まで上げきった悟は、薄らサングラスから透けるまなこで食い入るように見つめた後に「匂わせじゃん」とほくそ笑んだ。
 相応の時間を掛けて歩いた距離を、また相応の時間を掛けて引き返していく。あんなに酷薄だった夜風は、火照った肌に見合った良い塩梅になっていた。私のか細い血管に熱湯を流し込んで虐め抜いているのは、無論隣の男だ。悟は知らぬ存ぜぬの横顔を貫きながら、がっしりと私の手を絡め取った指先で、関節をなぞったり皮膚をくすぐったりしてくる。性格も悪ければ、手癖も悪い。さながら躾のなっていない大型犬のようだ。必死の抵抗として繋がれている方の腕を勢いよく振り回すと、ようやくこちらに視線を寄越した悟が不敵に口唇を緩めた。何かと思って身構えたけれど、もう手遅れだ。繋いだ手を引き寄せられて、応戦する隙も与えられず、あっという間に悟の両腕に閉じ込められてしまった。凶悪なまでに容赦ない腕のちからが、全身から抵抗の意思を奪っていく。
「悪い子は懲らしめてやろっと」
「もう良い、もう分かったから!」
「ふ〜ん、何が分かったって?」
 掌を返してさっさと白旗を振り上げれば、悟は上機嫌で腕のちからを柔くした。思いきり声が弾んでいる。この男はとことん加虐嗜好なのだ。付き合うようになって、散々シーツの上で手篭めにされて目の当たりにした貴重な実態だ。
 まだ私の身体は悟の腕の中に囚われている。彼が全力を出せば私の胴体なんて一溜まりもないだろう。となれば、従順に、かつ円満に。彼を納得させる返答を編み出さなければならない。何も良くないし何も分かってないけれど、事実だけは明白だ。女性にもお金にも無頓着で、去る者を追わない思想の人間が、こんな面倒で厄介な女を迎えに来てくれている。この現状が指し示すひとつの推測が、推測の枠に留まらなければいいのにと願う自分も、確かにいる。欲望に唆された声帯は、正直にその推測を吐露していた。
「……悟が、私のこと好きってこと」
 もう、いつ息絶えてもおかしくない。呼吸が浅くなって、胃液は逆流しそうだ。勘違いも甚だしい願望の発露を今になって後悔している。目を伏せて悟から視線を逸らした。
 好きになって、身体を重ねて、付き合って。順序の正しくない経緯も、そうなるに至ったきっかけも、私がこの突発的な愚行に及んだ要因だった。そこに確固たる愛情が潜在していると、信じたいのに信じられない。でも、もう認めてもいいのだろうか。悟が、私を好きでいてくれていること。ただ孤独を紛らわすでも空白を埋めるでもない、傑とはまた違う、悟にとってのただひとりになっていること。
 迂闊に立ち入れない沈黙を打ち破ったのは、悟の長い長い溜め息だった。後の余白を塗り潰してしまうほど存在感の大きいそれは、怒りや呆れすら通り越しているように思えた。
「……まだそんな段階だったの? さすがに鈍感すぎない」
「どういうこと?」
「僕がお前に言った言葉、全部忘れた? 僕の傍にいると耳が遠くなる呪いか何かかな?」
 饒舌に言葉を紡ぎ出した悟は、きつく抱き締めて私の首元に顔を埋めた。熱い吐息が吹きかかる。切なそうで、苦しそうで、もどかしそうで。そこでようやく気付いた。悟を信じられなかった私に、悟が傷付いていること。当然の事実を今更になって認識して、心臓が痛くなった。ばかだ。最低だ。彼にだけは、寂しいという感情をもう抱いてほしくないと願っていた筈なのに。震える手で、けれど迷いなく、私は悟の背中に手を回した。
「好きじゃなかったら、抱いてない。キスもしてない。付き合ってなんて言わない」
「……うん、悟」
「僕がにしたこと全部、愛してるから以外の理由なんてないよ」
 柔らかく包み込むような低音が、鼻先に触れた唇の感触が、私の心に灯火をくれる。サングラスを退けた先に待っている青白い満月のような瞳が、私の体内に一途な愛を溶け込ませてくれる。
 願ったことが全部現実になって、でもどこか現実味のない夢のようで、熱情的な映画のようでもあって。悟と駆け抜ける夜は、やっぱり深海のようだ。冷たいのに、寒いのに、今はもう仄かに温かい。
 光も音も届かなくても、悟が私を必要としてくれるなら、――愛してくれるなら、きっとそれだけで。この静まり返った真夜中の深海を、ふたり手を取って泳いでいける。


2022/10/01