finally in the hell
※教師と生徒のはなし(恋愛描写なし)

 ――父は、私を恨んでいるでしょうか。愛したおんなではなく、私のために命を投げ売ったこと。後悔しているのでしょうか。嘆いているのでしょうか。私が自由を得てしまったことを。
 齢十六の、あどけなさを体現したような風姿の少女が、内に秘める大人びた心慮を露呈したとき、五条は少なからず驚いた。同時にこれから先彼女を蝕み続ける忌々しい「呪い」を想像して、虫唾が走った。
 ――さん。貴方はとんでもない置き土産を、よくもまあ。
 五条は記憶に上書きされた彼女の父親の死に顔を思い返した。仏が如くこの世の全てを赦したような表情だった。


 今日はの父の葬儀であった。その昔一級術師として前線に出ていた彼女の父親は、禪院家の遠縁に当たるが、何年か前に第一線を退いていた。そのためか、御三家の血縁でありながらも葬儀は平々凡々なもので、参列者も彼と交流のあった術師に限られたようだ。
 何処からともなく彼の訃報を聞きつけた五条は、衝撃が頭を擡げながらも、クローゼットから喪服を引っ張り出してこの場に足を運んでいた。決して親交が深かったわけではない。彼は五条がまだ若かりし高専生活を謳歌していた頃の、一級昇格任務の帯同者であり適性評価者であった。その場限りの親交とも呼ぶに耐えない数日間。加えて、彼は優秀な術式や体術を持ち得ていたとは言え、五条の暴力的で圧倒的な異能を前にすれば差は歴然だった。小生意気でませていた当時の五条は、己より下の実力の人間に評価される苛立ちや煩わしさを隠そうともしなかったが、彼女の父親はそんな五条を咎めも説教もせず、ただ真摯に受け止めるだけであった。誠実で、篤厚で、常識的。それは五条だけでなく、術師にも非術師にも分け隔てなく、嘘偽りなく。性根の腐った大人がのさぼるこの世界において珍しい型の人間だと五条は気付いた。だから任務を遂行し終える頃には彼を快く思っていたし、「お前さんみたいに強くて利口な術師が上に行けば、この国は安泰だろうさ」という一級昇格に向けた薄ら面映さすら感じさせる激励の言葉には、それなりに舞い上がりもした。だが、彼が術師を退任したことも、呪術とは異なる世界で臨終したことも、全て人伝の情報だ。今にして思う。この世界で本当に必要だったのは、彼のように伝統や縛りに囚われず、新しい風を吹かせる若人を信頼し重宝できる存在だったのだと。五条が教鞭を執ったとき、思い浮かべた教職者として在るべき姿は、彼だった。図らずも五条悟を形作る一因となったひとの姿かたちは今となっては曖昧で、古ぼけて美化された記憶によってのみ縁取られている。だから彼の死を聞いたとき、漠然と、最後に顔を拝まねばなるまいと思った。火に巻かれ、骨となり、土に沈むその前に。
 葬儀当日の午後は地方への出張任務が控えていたが、送迎を担当する補助監督がの父親と親しい仲にあったということで、午前中は葬儀場に線香を上げにいく段取りとなった。合意とは程遠く、五条の地位や権力を誇示して無理を強いたが、諦めて葬儀場に車を走らせる補助監督の声は存外朗らかであった。五条が訊いてもないのに、の父親について饒舌に喋り出す。禪院家との遠い繋がり、術師の退任理由、死に至った経緯、……。どうやら彼の退任後も酒を嗜む程度には親交が続いており、その席で自然にそういう話の流れになったらしい。まるで朧気な思い出をひとつずつ言葉にして表出し、ひとつずつ昇華しているようにも思えた。術師以外の世界で生きた尊師に五条は一匙の興味も抱かなかったが、補助監督の独りよがりな昇華作業として黙って聞き入れた。それくらいの人情は兼ね備えていた。
 そうしてぽつぽつと紡がれる中で、補助監督の思い掛けない「娘さんどうなるんでしょうね」という言葉に、五条の目蓋はひくついた。それまで「そう」だの「ふうん」だの投げやりな相槌が零れ出ていた唇は、呆気なく閉口した。補助監督は五条の様子に感けることなく続けた。その様相は先程と打って変わって、どこか矢継ぎ早で焦慮に駆られているようだ。
「今は地元の公立高校に通ってます。ただ、相伝の呪力も術式もしっかりあるみたいで」
「……元一級術師の娘で、相伝の術式か。上が欲しがりそうな人材だなあ」
「……五条さん」
「言いたかったのはそういうことでしょ」
 補助監督はばつが悪そうに口を噤んだ。心なしか、ハンドルを握る手のちからが強くなったようにも思える。空気を淀ませた沈黙は肯定と捉えられても仕方ない。
 回りくどい言い方だが、要はそのひとり娘の身を案じているのだ。
 先に話題に出た、彼が死に至った経緯が思い起こされる。彼のひとり娘――は父親を亡くしたと同時に、母親に当たる存在も喪失した。再婚相手である女性が彼を刺殺し、末に刑務所行きとなったのだ。詳細な経緯は調査中らしいが、彼は娘を庇うように横たわっていたのだと言う。オードソックスに考えれば血の繋がらない娘への疎ましさ、怨恨、その受難。推測するは容易いが、事実は本人のみ――今となってはのみが語れることだ。五条は事実と推察の整合性に執着はなかった。そんなことより、呪術を離れた先でも負の感情による災厄を被った彼の死に様に、心底同情した。
 詰まる所、は今頼れる身寄りがいない。補助監督がそれとなく五条に彼女の存在を伝えてきたのは、高専の教職員として、身寄りを保護できないかという打診だった。彼女の行き着く先に安息は考えられない。大元である禪院家に引き戻されるか、上層部の言うがまま為すがままの奴隷と化すか、呪いに付き纏われるだけの一生を終えるか。何れの道を選んでも茨の道だ。どう足掻こうとも安住の地には辿り着けない。その現状を打開しろというあまりにも酷な難題を、五条は容赦なく押し付けられた。この補助監督も、五条ほど上層部を毛嫌いしてはいないが、年端のいかない少女を預けるとなるとそれなりに思うところがあるのだろう。だからこそ、一見怠慢で不誠実に見えるが、その実この世界の展望を掲げて新生を図る五条に彼女を託したのだ。
 会って間もない、同僚とも言い難い存在からの無責任な期待に、正直なところ五条は辟易とした。悪気はないのだろうが、この補助監督がしようとしていることは禪院家や上層部と何ら変わりない。本人の思惑を考慮せず、それがおしなべて幸せだと主張するのは大人の身勝手な傲慢だ。押し付けがましい親切は時としてひとを傷つけるし、不幸にもする。
「でもさ、さんが娘さんを高専に入れなかったのって結局は呪術に携わって欲しくなかったんじゃないの?」
「それはそうでしょうけど……」
「だとしたら、悪いけど僕の一存では決めかねるな」
 車が停車する。目的地に着いたようだ。郊外の住宅街。その中央に位置する葬儀場はまだ真新しく、死の気配を微塵も寄せ付けない外装である。その内では今まさに、故人の死を弔うさなかであるのに。
 補助監督は五条の言葉に唖然としていた。まさか亡者に意見を求めるつもりですか? とでも言いたげに目を白黒させる。無論そんな訳はない。五条は天賦の才を得てして生まれ落ちたが、死者と対話を試みる才は持ち得なかった。できる筈もない。五条ができることと言えば、蘇る伝のない死者の気持ちを類推するくらいのものである。しかし、例えその行為が許されたとしても、それをいかにもな本人の意思として語ることは許されない。死者への冒涜に他ならないのだ。
「決めるのは僕じゃないしあの人でもない。本人の選択を尊重するまでさ」
 だから五条はそう答えた。本当に重きを置くべきは己でも故人でもなく、あくまでも彼女の意思であると。彼女が行き着く先流れる先の選択肢をひとつ増やして、後は彼女の意思を尊ぶのみであると。術師とは、教職とはそういうものだと、五条は身に沁みて知っていた。
 車から降りて、五条は早々に葬儀会場へと歩を進める。常識を備えた補助監督は数珠やら何やらを車内で用意していたが、非常識を自負する彼は手ぶらで向かった。薄情この上ないが、彼は尊師の死に顔を拝むだけで良いと割り切っていた。後は課された使命がひとつあるだけ。規律に従った品々よりもお悔やみの気持ちが大切であると、尤もらしい理由を垂れながら、枯れ葉の貪るコンクリートを踏み鳴らした。
 葬儀は細々として味気ないものだった。開式前にも関わらず既に参列者が多いことから、の父親が周囲から衆望を集めてきたことが窺える。五条と顔見知りの術師や補助監督も幾人か目視できたが、誰かに挨拶するでもなく、目的を果たすためだけに棺の前に立った。ひょいと中を覗き見て、五条は少しだけ安堵した。遺体が五体満足なことにも、記憶の淵に佇む彼と相違ない顔付きであったことにも、安らかに死に遂げた表情をしていることにも、何もかもにだ。如何に己が惨たらしく常軌を逸した死を目撃し続けてきたのか、再認識する。棺の内で眠り、大勢に見送られて幕を閉じる人生は、呪術の世界では滅多に相見えない。誰も彼もが悲惨で目も当てられないご遺体となって帰って来るし、身元が判別できない死も、行方不明として扱われる死も大いに在る。そういう世界だ。だから、死に至る経緯はどうであれ、彼は望んだ世界で望んだ人生を全うできたのだと、五条はそう信じたかった。
 白菊が敷き詰められた棺で永遠の眠りに就く恩師に、五条は心中で哀悼の意を捧げた。感謝と別れの挨拶、そして気持ち程度の謝罪。五条がこれから実行せんとする行為は褒められたものではない。親が子の幸せを願い、避け続けてきた道。頼んでもない赤の他人が我が子をその道に引き込もうとする様は、顰蹙を買うに違いないし、末代まで祟られても文句は言えない。それでも、五条は地獄の釜の入り口を開くことを選んだ。それが彼女の未来に繋がると思ったから。
「……さん、今から僕がすることを許してくれとは言いません。どんな罰だって受ける所存です」
 ――だからどうか、娘さんの望んで選んだ行く末を、見守ってあげて下さい。
 魂の抜けた空っぽの死体に、五条はそう呟いた。誰に届くこともない、今は亡き恩師に贈る最後の願い。それは或る意味で五条が自分を戒めるための呪いの誓いだった。別れを惜しむ言葉としては不適切だが、術師として生きる彼には、道並外れた不道理な言葉の方がよく似合っていた。


 と思しき少女はすぐに見つかった。
 葬儀場の片隅に置かれた椅子に腰掛ける少女は、黒を基調に白のラインがあしらわれた制服を纏っていた。一定を保って繰り返されるプリーツのスカートは膝小僧まで覆い尽くし、そこからはすらりと細い二本の足が伸びている。唯一の彩色を許された臙脂色のスカーフは胸元で声高らかに主張していた。規律に則り組織の統一を図るための制服は、大人が蔓延る葬儀場において、少しばかり浮いている。そしてそれは五条も同じだ。喪服にサングラス、淡いしろがね色の髪と、到底喪に服しているとは思えない出で立ちに、群衆から飛び抜けた人並み以上の身長。どれを取っても目立つことこの上ない。浮ついた者同士だと、五条は勝手に彼女に親近感を抱いた。だから隣の椅子に座って、さも当然のように話しかけた。
「こんにちは、お嬢さん」
 成るべく優しく、人当たりの良さそうな声を出した。同期や後輩からは胡散臭いと煙たがれるが、五条の内面を知らない者にはそれなりの好印象を与える声だ。
 五条の言葉が己にかけられたものだと気付いて、は虚空に焦点を合わせてぴくりともしなかった瞳をおもむろに彼に向けた。肩上で切り揃えられた髪が揺れる。窓からの木漏れ日を白い肌に目一杯受けているのに、髪の影に隠れた表情はどこか陰気な雰囲気を漂わせていた。
 は五条の見目にぱちぱちとまじろいだ。この素性の知れない根無し草のような男が、父親とどのような繋がりがあるのか、想像が結びつかないのだろう。値踏みするように彼女の視線が移ろいだが、やがて一点――五条の瞳に照準が定まった。相手がどんな輩か分からずとも懸命に人の目を見て話そうとする。誠実な彼女の父親が、手塩にかけて育てた結晶がここにあるのだと五条は感慨深く思った。
「こん、にちは……」
「お父さんのこと、お悔やみ申し上げます」
「ご丁寧にどうも。……あの、失礼ですけど」
「ああ、僕は五条悟と言います。お父さんとは……前のお仕事でお世話になってまして」
「五条……さん。呪術師の方ですか?」
 五条は言葉を濁したが、は術師という生業について多少なりとも知っているようだ。ならば隠し立てる必要もない。「そうだよ」と五条が崩した口調で呆気らかんと正体を明かすと、はつぶらな瞳を更に大きく真ん丸に見開いた。彼女が術師をどのように認識しているのか皆目見当もつかないが、知識があるということは彼女の父親が教育を施したということだ。どれ程のものか――己の職業として紹介しただけなのか、の身を最低限保証するための知恵を蓄えただけなのかは分からない。だが彼女は恐らく、術師の本質は知らないだろう。五条には確信があった。今日その現実を突き付ける覚悟もできていた。
「今日は呪術師として、君と話がしたかったんだ」
「……私と?」
「うん。君が今後どうしたいか。君自身に選んで欲しい」
 そう言って、五条は三本指を立てた。補助監督を相手にしたときと同じ話だ。が今手に取ることができる未来の選択肢をみっつ示してやる。五条の突拍子もない話を、は眉根を寄せて真剣な面持ちで聴いていた。物分りが良いのか、それともまだ父親の死を受け入れられず夢見心地なのか。五条はどちらにせよ最後のひとつの選択肢を提示するだけだ。よっつめ、と言って三つ指に加えて小指をぴんと立てる。は固唾を呑んで小指を注視した。
「よっつめは東京の高専に転入して呪術を学び、呪術師として生きる道」
「呪術師として……」
「そ。他の選択肢に比べると、まだ君の自由が利くし自我も保てるだろうね。ただ正直これは大変」
「どうしてですか?」
「人間の生き死にに関わるのは想像以上に辛いし、根気も体力もいる。その上、人を助けるのに自己犠牲も厭わない、悍ましい世界だ。まともでいられた君のお父さんが不思議なくらいにね」
 ――少なくとも、君のお父さんは望まない選択肢だ。
 五条はそう思ったが、言の葉に乗せて紡ぎはしなかった。死者の意見を代弁する冒涜を犯したくなかったのと、あくまで本人の意思を聞きたかったからだ。五条の意思も父親の意思も、そこに介在してはならない。辿り着く未来に後悔がないよう、己の意思で選択して欲しかった。
 五条の思惑が伝わったのかは定かでないが、の潤みを帯びた双眸は伏し目がちに俯いた。綺麗な扇状に伸びた睫毛が弱々しく震えている。彼女はきっと今必死に己の目の前に佇む現実を直視して、未来を思い描いて、選択をしている真っ只中なのだろう。五条はそう思って、催促も付言もせずからの返事を待った。静寂とは言い難い人のざわめきが今の五条には心地良い。それはも同じである筈だ。沈黙によって訪れる静寂は、焦りや戸惑いを生むし、誤った判断を導きかねない。
「……五条さん、私、思うことがあって」
 が牢獄のように長らく閉ざしていた唇を開いたとき、五条は「うん」と優しく迎え入れた。彼女の決断を全力で支援するという姿勢を言葉尻で示した。しかし、彼女の言葉は五条が予想していた代物とは少し乖離していた。
「私はこの世に必要だったのかなって。こんなに沢山の人から愛されていた父の人生に、私の席はない方が良かったんじゃないかって」
 空気越しに鼓膜に届く声は震えていた。けれど、反して確固たる意思を滲ませている。スカートが握り締められ、プリーツが皺くちゃになっているのを、五条は視界の端で捉えていた。の発露が限りなく本物で、限りなく悩ましいものである証明。五条は何故だか背中に悪寒を感じた。文字通りぞっとする。どうして愛されて育った筈の彼女が、このような思考に至るのか。知りたいけれど、知りたくない気もして、でも知らねばならない。そんな矛盾した気持ちに駆り立てられる。
「どうしてそう思うの」
「父は、私の実母が死んで呪術師を辞めました。私が手の掛かる娘だったから。再婚したときも、私は祝福したいと思ってたけど、その人とどうしても仲良くなれなくて、いつも喧嘩ばかりしてた。そのせいで揉み合いになって、それで……」
「……」
「父の人生を不自由にしたのは私なんです。あの優しくて自慢の父の人生を、私が台無しにしてしまった……」
 己の存在意義を否定する理由を、は慎重に選び取った言葉を介して、五条に打ち明けた。床に視線を落としている瞳は水の膜に覆われて、ちいさな光を反射して映している。今にも涙の防波堤が決壊してしまいそうだ。その姿は、教会で罪を告白し懺悔する罪人を想起させた。実際、真偽はどうであれはその心境に立たされている。父親の死をきっかけに、堰き止めていた罪責感がどっと溢れ出し、留まる所を知らずに心を蝕み続けている。そして彼女の最大の不幸は、彼女の罪を否定できる人間がもうこの世には存在しないということ。を育て上げた父親にしか知り得ない真実は、彼の亡き今闇の中に葬られてしまった。彼女が真実を知る機会は一生訪れない。それは則ち、彼女は一生この罪責感を背負って生きていかねばならないということだ。これを呪いと言わず何と言おうか。五条は、の眼前に広がる予想以上に惨たらしい現実に、目眩さえ覚えた。
「父は、私を恨んでいるでしょうか。愛したおんなではなく、私のために命を投げ売ったこと。後悔しているのでしょうか。嘆いているのでしょうか。私が自由を得てしまったことを」
 疑問を呈したに、五条は珍しく答え倦ねた。普段の彼なら答えにくいことや聞かれてもないことでも軽率に舌に乗せて吐き出す性分であるのに、今回ばかりは何と声を掛けるべきか思い悩んでいた。もう彼女の中に答えは出ているのだろう。父は恨んでいるし、後悔しているし、嘆いている。そうあって当然だと信じて疑わない。生者と死者の間に聳え立つ垣根がこんなに大きいものだと五条は今日まで知らなかった。歯痒くて堪らない。こんな人間臭い感情が己を占めることも、五条は知らなかった。
「……父が死んで、私ひとりだけ自由を得るのは都合が良すぎるように思います。だから、その……」
「呪術師になろうとは思わない?」
「……すみません」
「いいよ。君が決めたことに口出しするつもりはないしね。ただ……」
 そこで、五条は一旦区切りを置いた。口出しするつもりはない。これは本心だ。でも、のあまりにかなしくて虚しい間違いは正して帰らねばならないと思った。教職としての役割意識か、五条悟という人間としての気質か。恐らく両方だ。五条は困っているひとや助けを求めるひとを見過ごすようにできていない。だから、静かな語り口で彼女の誤謬を指摘することにした。
「死人は口が利けない。故人の思うところは誰にもわからないし推測の域を出ない。だから、そうだと決め付けるのは早計だし傲慢だと僕は思うね」
 今しがた出逢ったばかりの男を信用して内面を吐露したに、惨い仕打ちをしかける五条は、彼女の目にどう映ったのだろう。ろくでなし、人でなし。そういう侮蔑語が脳裏を掠めた。全くもってそれは正しい。五条は彼女にそう思われても可笑しくないくらいの提言をしたのだ。その自覚があった。でも、紛れもなく五条の本心であった。
「……それ口出しじゃないんですか?」
「僕の独り言。嫌なら耳塞いでいいよ」
「……五条さんって、もしかして性格悪い?」
「今頃気付いた?」
 己の性悪は自他共に認める折り紙付きだ。がようやく辿り着いた事実に、五条はにっと笑ってみせた。彼女は呆れたような表情で、でも決して侮蔑するような表情はせずに、彼に向き直る。同時に癖っ毛のないしなやかな黒髪が揺られた。五条の目を奪う。だからつい、口を衝いて本来すべきでなかった発案をしてしまう。
、高専においでよ」
 やってしまった、と後悔が募るより先に、の表情に五条は魅入られていた。暗雲がかかった鉛空のような顔付きが、突如として晴れ渡る、その瞬間。五条は気付いた。彼女が塞ぎ込んでいたくてそうしていたわけではないこと。己の心にかかる靄を切り払えるものなら切り払いたかったこと。人間として当然だ。誰だって存在意義が欲しいに決まっている。
「僕もそこで教師をやってる。今の君にはそれが一番良いと思う」
「……どうして?」
「君が、お父さんを完全に分かることはできないけど、近付くことはできる。どのようにあの人が生き、何を思い、何をしてきたのか。君の完結してしまった世界の真理を、今一度見返すべきだ」
 はすべて聞き終えて、涙を溜め込んだ瞳をきらきらと輝かせた。窪みから雫が溢れることはついぞなく、無言で頷き首肯を示す。ずっと握り拳であった彼女の手のちからが緩まり、解かれている。五条はそれを見つけて、無性に安心した。
 ひとりの少女が呪術の世界に足を踏み入れるよう促したことは、五条にとってひとつの過ちだ。有象無象の死が連なる地獄へ引き入れたことを、彼は後悔する日が来るかもしれない。現実を突き付ける覚悟はあったのに、実際こちらの世界に入る決断をされると、その選択が不適切な気がしてならなくなる。これから先ずっとこういう思いを抱えるのだろう。それに気付いて、五条はを食い入るように眺めた。一緒だ。が父親の呪いに蝕まれるように、五条もを地獄に連れ立った責任や義務を背負う呪いに蝕まれる。そういうさだめを、彼女の幼気な瞳からひしひしと感じ取った。
 参列者のひとりがの名を呼ぶ。どうやら喪主として葬儀について話があるようだ。気付けば時刻は葬儀の始まる十五分前だ。五条も、そろそろ出張任務に赴かねばならない。
「……あの、五条さん」
「いいよ、行っておいで。僕も仕事があるからもう出ないと。……それと」
 が立ち上がったのを見届けて、五条も重い腰を引き上げた。彼女は話の続きを待っているのか、視線を五条に寄越して定めたままである。ふっと彼の唇のあわいから空気が洩れ落ちた。
「高専に来るなら僕のことは五条先生ね。はい復唱」
「えっ……あ、五条、せんせい?」
「ん、よろしい」
 また迎えに来るよ、と五条が呑気に告げると、は目元に笑みを湛えて満足そうに参列者の元に走り寄って行った。そんな反応をされると、五条はどうしようもなく自分が情けなくなった。己が仕出かしたことの重大さを半分も受け入れられていない自分に、震えが走る。狂気に満ちた業を自ら背負いに行った自分を、心底疎ましく思ったし、心底好ましくも思った。
 少女を地獄へ連れ立った責任を、己は何としてでも、果たさねばならない。その事実だけが、五条の心にすとんと落ちていった。

2019/12/06